沖縄史料調査

二○○七年一月一四日より二一日まで及び一月二八日より二月二日まで、
沖縄県に出張した。前者は画像史料解析センターの研究プロジェクト「南島
関係画像資料の研究」による奄美関係画像史料の調査のためであり、後者は
基盤研究(A)「日本前近代史料の国際的利用環境構築の研究」による琉球・薩
摩関係史料、琉球・日本関係史料の調査のためである。本報告では、両調査
にわたるところがあるので、あわせて調査成果を記す。
 一月一八日、沖縄県名護市の名護博物館において、「琉球嶌真景」の高精
細写真撮影を行った。「琉球嶌真景」は、一九八七年に琉球新報社より名護
市に寄贈されたもので、四条派の画家岡本豊彦(一七七三~一八四五年)の
作品であり、もと佐賀県有田の青木家(陶器の顔料の製造販売業)が所蔵し
ていたものである。比嘉武則「「琉球嶌真景」再び」(『あじまぁ』名護博物
館紀要一○、二○○二年三月)により岡本豊彦の作品であることが明かにさ
れ、奄美博物館主催シンポジウム「「琉球嶌真景」と奄美」(二○○二年八月
一七日。比嘉武則・津波高志・林蘇喜男・下原美保・原口泉・弓削政己氏参
加)により全一一画が奄美大島の光景であることが明かにされた。その後、
津波高志「琉球嶌真景の文化的描写」1~5(『南海日々新聞』二○○二年
九月三○日~一○月一七日号)、下原美保「「琉球嶌真景」考」(『近世薩摩に
おける大名文化の総合的研究』科学研究費補助金基盤研究(A)(2)研究成果報告
書、鹿児島大学中山右尚、二○○三年三月)、川野和昭「『琉球嶌真景』にみ
る奄美の民俗文化―『大嶋古図』・『南島雑話』・東南アジア大陸北部少数民
族の民俗文化との比較から―」(『黎明館調査研究報告』一九集、二○○六年
三月)などにより分析が進められ、一一画の情景や画題、すなわち描かれた
場所・行事・習俗がほぼ明かにされた。残された問題は、薩摩を訪れたこと
のない京都の画家が、どのようにして描くことができたのか、絵巻の制作を
依頼したのは誰かということである。「琉球嶌真景」は、『南島雑話』と共通
する画題(相撲・爬龍船漕)や図像(芭蕉山とティル、高倉、砂糖車など)
があること、画家自身は現地を見ていないことから、薩摩藩の奄美諸島支配
との関係が想定されている。今回、富士フィルムイメージテック株式会社に
委託して、博物館において四×五カラーフィルム撮影を行い、研究用に原寸
大カラープリントを作成し、オリジナルフィルムは名護博物館に寄贈した。
石上は、一月一八日、撮影終了後、名護博物館講演会において「南島雑話・
琉球嶌真景色と南島画像史料」の講演(会場、名護市中央図書館)を行った。
 一月一四日・二○日及び一月二八日は沖縄県立図書館郷土資料室で奄美諸
島関係史料調査を行い、二月一日は沖縄県文化振興財団史料編集室を訪問し
諸史料についての教示を得た。それらの成果の一部は、石上「南島雑話とそ
の周辺」八(『画像史料解析センター通信』三七号、二○○七年四月)に記
してあるので参照されたい。
◎那覇市歴史博物館蒐集琉球家譜の琉球薩摩関係・琉球日本関係・奄美諸島
関係記事
 ここでは、琉球・薩摩関係史料及び琉球・日本関係史料、並びに奄美関係
史料の調査において重要な史料群である琉球家譜についての調査成果の一部
を報告する。琉球家譜に見える琉球薩摩関係記事・琉球日本関係記事・奄美
諸島関係記事は膨大な量になり、一九九三年以来、様々な機会を得て調査し
てきた。その一端は、「奄美群島編年史料集稿」(『南日本文化』)や「南島雑
話とその周辺」に紹介している。ここでは、二○○七年一~二月に那覇市歴
史博物館で調査した、同館収集の琉球家譜資料(大部分は複写版)に限定し
て紹介する。その他の機会に調査した記事は、別に紹介の場を持ちたい。
 琉球家譜の琉球薩摩関係・琉球日本関係記事は、『中山世鑑』、『中山世譜』
及び同附巻(琉球から薩摩藩・幕府へ派遣された使者についての記録)等の
史書や江戸上り史料や諸家の文書などの琉球史料、「島津氏正統系図」や
『旧記雑録』などの島津家史料、『通航一覧』やそれに収録された史料など幕
府側史料と関係付けることが必要であることは言うまでもない。江戸上りな
どについては、『通航一覧』など日本側の史料には見えない事実も琉球家譜
には記されていることがあるが、この調査報告ではそれらとの対応関係は省
略する。琉球家譜の記事は、上国(鹿児島へ上ること)や江戸上りについて
は付加的な情報である場合が多いが(江戸上りについては、鹿児島から江戸
までの往復の記録や江戸の島津藩邸での行事など、『通航一覧』では知り得
ない情報もある)、医道稽古のような記事は琉球家譜によってしか知りえな
い情報である。このように、近世編年史料の編纂にとって、琉球家譜は重要
な史料群である。
 二○○七年一~二月には、『氏集』(一九八九年増補版、那覇市企画部文化
振興課)の二番二四○から五番四八五までの範囲の琉球家譜で、複写版等が
那覇市歴史博物館に蒐集されているものを調査した。なお、調査は、『那覇
市史』資料篇1の6・7・8に掲載されたものは省略し、それ以外のものに
ついて、前述のテーマに関係ある記事を抄出し、「筆写」により行っている。
公刊された『氏集』には、複写本等の蒐集されている家譜に記号がついてい
る。その後の蒐集資料もある。
 以下、分量の都合で、琉球薩摩関係・琉球日本関係・奄美諸島関係記事の
ある琉球家譜の一部を紹介する。なお、既調査分及び今回報告に掲載できな
かった家譜は、機会を改めて紹介する。
○四番三八二「權姓家譜」大宗(大宗新参權齊利具志堅筑登之親雲上古里
 新参權氏 具志堅筑登之親雲上)
・新参二世古里 具志堅筑登之親雲上
康煕四十三年(一七〇四)、島津綱貴御逝去使僧円覚寺徳叟長老の役人とし
て上国する。
・新参二世古通 具志堅筑登之親雲上
康煕五十五年、徳川家継薨御の御悔使者孟氏川平親方宗相の與力として上国
する。
・新参二世古治 具志堅筑登之親雲上
康煕五十六年、徳川吉宗代替の慶賀使尚氏越来王子朝慶に内証として随行す
る。
・新参二世古珍 具志堅筑登之親雲上
乾隆二年(一七三七)、医道稽古のため上国し、医道秋山東庵・外科東郷正
安に付いて稽古する。
同六年、御支配奉行毛氏奥平親雲上安三・向氏恩河親雲上朝村の附医として
随行する。
同八年、御城内御番医者となる。
○四番四一三「明姓家譜」支流(元祖照屋親雲上長太三世喜屋武親雲上長昌
支流五子明守公桃原親雲上長安 明氏 照屋筑登之親雲上)
・八世朝順
乾隆三十九年、王世子中城王子尚哲公の回国の賀儀に扇子等を賜る。
○四番四一五「明姓家譜」支流(元祖照屋親雲上長太三世喜屋武親雲上長昌
支流次男明視遠前福治長忠 明氏 瀬底筑登之親雲上)
・四世長忠
万暦四十五年(一六一七)、年頭慶賀使向氏東風平親方朝香の付衆として上
国する。
崇禎九年(一六三六)、進貢使向氏嶋尻中城親方朝寿・正義大夫林国用瑞慶
覧親雲上、中華に赴く時、官舎として、薩州よりの白銀を帯して渡る。この
時、銀を商人に略取される。
同十一年、帰国し、ついで宰領使朝寿に従い上国する。
同十二年、帰国し、銀盗難の罪により久米島に流される。
・五世長満 瀬底親雲上
康煕九年、大里間切再検地奉行の筆者となる。
同十一年、兼城間切再検地奉行の筆者となる。
同十二年、羽地間切再検地奉行の筆者となる。同年、具志川間切再検地奉行
の筆者となる。
・八世長愛 瀬底筑登之親雲上
乾隆七年、国中地方御支配の筆者となる。
同十二年、御支配の仮筆者となる。
同十三年、御支配の仮筆者となる。
○四番四二六「淇姓家譜」正統(大宗淇徹住座波掟親雲上嘉恒 淇氏 座波
筑登之親雲上)
・四世嘉寛
康煕三十一年、王世孫佐敷王子尚益公の薩州よりの回国の慶により白麻を賜
る。
・六世嘉典
同三十九年、王世子中城王子尚哲公の薩州よりの回国の賀儀により絹烟草入
等を賜る。
○四番四三八「衡姓家譜」小宗(元祖諱思儀照屋筑登之親雲上知武三世諱應
哲儀間清林知光支流二子諱克明名嘉間親雲上智香 衡氏 名嘉真筑登之親雲
上)
・四世知香 名嘉真親雲上
雍正二年(一七二三)、福州において医道を学ぶ。
乾隆十四年、宮古島詰医者として宮古島に渡る。
同十六年、伊豆国大島商船一隻飄到する。病者を治療し琉球に送る。
同二十八年、慶賀若宮降誕の使者尚氏豊見城王子朝儀の従医として上国する。
・五世知休
乾隆四十七年、「茂姫様移居西丸改称御縁女賀御両殿様事」の使者尚氏義村
王子朝宜の儀者として上国する。
同四十八年、「唐之首尾使者」向氏盛嶋親雲上朝朗の與力として上国する。
・五世知利
乾隆二十八年、使者尚氏豊見城王子朝儀の従医の父知香に従い上国する。
同三十九年、世子尚哲の薩州よりの回国により扇子等を賜る。
同四十七年、「茂姫様移居西丸改称御縁女賀太守公虎寿丸公事」の使者尚氏
義村王子朝宜の與力として上国する。
同五十八年、「若君公降誕事」の使者尚氏義村王子朝宜の與力として上国す
る。翌年、帰国の途次、與論島の沖に難破し溺死する。
○五番四七七「向姓家譜」正統(尚清王六子、大宗尚笵国東風平王子朝典
向氏玉城按司)
・二世朝易 東風平按司
天啓六年、人質として薩州に赴き、崇禎元年帰国する。
○五番四八三「向姓家譜」大宗(尚質王五子、大宗尚弘徳東風平王子朝春
向氏勝連按司)
・二世朝資 東風平按司
康煕四十五年、「寛陽院公十三年忌為進香事」の使者として上国する。
同四十九年、華人船、今帰仁間切運天港に漂着し、横目稲津源左衛門、付衆
名越與右衛門、御双紙庫理毛氏友寄親雲上安乗、正義大夫鄭弘良、大嶺親雲
上と共に今帰仁間切に赴く。
同五十八年、清国正使海宝、副使叙葆光の来航に際し、民俗を監理する。
同六十年、島津総州公致仕を賀する使者となり、翌年、改めて島津継豊公少
将任官の慶賀使となり上国する。
・三世朝寛 東風平按司
乾隆二年、大支配国中川原筋調奉行(川調奉行)となる。
同九年、那覇湊浚総奉行となる。「薩州凶荒缺用加増本国賦税」により同十
一年十月に任を終え復命する。
同十一年、薩州太守践祚及陛少将、継豊公致仕」の使者に任じられるが果た
さず。
同十二年、島津吉貴公薨去の御香奠使に任じられるが、翌年卒去する。
・四世朝宜 勝連按司
乾隆三十年、島津重豪中将昇任を賀する使者として上国する。
同三十八年、王世子尚哲、薩州より書簡等を朝宜に賜う。
同三十九年、王世子尚哲の薩州よりの帰国を賀する儀に扇子等を賜る。
・五世朝隆 勝連按司
乾隆五十三年、島津斉宣少将補任の慶賀使として上国する。
・五世朝隣
乾隆五十三年、慶賀使向朝隆の儀者として上国する。
・七世朝則
道光二十三年、使者尚氏浦添王子朝憙の惣大親となり上国する。
○五番四八四「向姓家譜」大宗・名護按司(尚質王三子、元祖尚弘仁義村王
子朝元 向氏名護按司)(読み起こし文の複写版)
・一世朝光 尚弘仁
一六八○年、徳川綱吉公将軍の御祝使となり、江戸上り。
・三世朝栄
一七二二年、島津吉貴、総州と改称の慶賀使として上国する。
一七四○年、島津又三郎の慶事のために上国する。
・五世朝長
一七一一年、島津敬公誕生祝の国書捧呈のために上国する。
・四世朝雄
一七五五年、相続慶賀の使者大村王子朝英の与力として上国する。
○五番四八五「尚姓家譜」正統・護得久家(尚元王第一王子也為庶子故不立
于太子也大宗尚康伯久米具志川王子朝通 向氏護得久按司)(読下本複写版)
・二世朝盈 具志川王子
崇禎五年、島津綱久公御誕生御祝使として上国し、翌六年江戸芝屋敷に赴き
島津家久に朝す。
崇禎七年、摂政尚氏金武王子朝貞、年頭御礼使として上国の時に仮摂政とな
る。
同九年、鬼利死且宗改めのことあり。
同十年、年頭御祝使兼家久公貴躬病を伺ふ安否使者として上国する。
同十一年、摂政尚氏金武王子朝貞及び島津家久公貴疾を伺ふ安否使者として
上国の際、仮摂政となる。
同十三年、尚豊王薨去による家督の事のための向氏越来親方朝上と両使とな
り上国する。
同十六年、摂政尚氏金武王子朝貞が徳川家綱公誕生の御祝使として江戸上り
の際、仮摂政となる。
順治六年、尚質王即位の御礼使として江戸上りし、日光山に参詣する。
同十四年、馬氏国頭王子正則、薩摩より帰国し、島津光久より賜った薩摩茶・
茶碗を朝盈に授ける。
・四世朝孝 具志川王子

康煕三十五年、島津吉貴公御入国の御賀使として上国する。
・七世朝利 具志川王子
雍正十年、島津宗信公御入国の御賀使として上国する。
同十一年、将軍徳川家重家督を賀する使者となり江戸上りする。
乾隆十二年、江戸上り使者となる。翌年正月鹿児島を発し帰国の途次、大島
に泊る。
                              (石上英一)

『東京大学史料編纂所報』第42号