大日本史料 第七編之三十一

本冊には応永二十五(一四一八)年八月一日より同年是歳条までを収めた。
七月来の称光天皇の体調不良は九月以後も続いている。九月四日に発し、一旦小康を得るものの月末に至っても回復せず、幕府は諸門跡、五山十刹に祈祷を命じている。朝廷も七社奉幣を命じ、十月初旬にようやく「本復」したとされている。後小松上皇に関する記事では、将軍足利義持が上皇の理非をきわめない成敗に不満を表明し、今後院宣発給が命じられた場合は、必ず自分に相談するよう指示していることが注目される(九月是月条)。幕府関係では、前管領斯波義教が死去し(後述)、十月十三日、子息の義淳が初めて出仕している。十月二十二日には義持の側近として権勢をふるっていた富樫満成が突然失脚して出奔、加賀半国守護職はじめすべての所領を没収されている。山城では石清水神人の訴訟によって放生会が延引を繰り返し、幕府は、侍所頭人一色義範に発向させるとともに、義範を山城守護職に補任することによって、ようやく十一月十五日に追行させている(八月十五日条、十月二十三日条)。また、九月、義持は伊勢に参詣しているが、それに随行した歌人子晋明魏(花山院長親)は詳細な旅日記「耕雲紀行」(史料編纂所所蔵)を残している。本冊ではその全文を掲載した(九月二十三日条)。
東国では、前年二月、上杉禅秀の与党として鎌倉府の攻撃を受けて甲斐守護職を失った武田氏の一族が甲斐への再入国をうかがい、幕府は信濃守護小笠原政康に命じてこれを援助させている(十月二十八日条)。また、政康に所領を返付したり(九月九日条)、宇都宮持綱の下野守護補任(九月十六日条)や今川範政の関東所領の安堵(十月二十日条)を鎌倉府に命じたりするなど、幕府による東国の親京都派勢力への支援策がめだっている。九州では、探題が渋川満頼より息義俊に交替しているが、正確な月日は不明である(是歳条)。
公家・寺社関係では、東寺の塔の修理が開始され、義持が見物に訪れており、その際の詳細な出納簿が残されている(九月十七日条)。応永二十三年に古木転倒による破損のあった伊勢外宮では一宿仮殿遷宮が行なわれている(八月二十九日条)。宇佐宮でも造営の準備が進められている(十一月二十五日条、十二月十七日条)。また伏見宮家では、貞成王のもとに多くの人々から宮家領の知行の希望が寄せられている。これは前年に貞成王が宮家当主となったことに伴うものであろう(十月四日条)。
対外関係では、倭寇の禁圧に力のあった宗貞茂の死去(後述)を受け、明・朝鮮ともに倭寇再燃の警戒を強め、沿海地方の防備を強化している(是歳条)。また朝鮮では太宗が譲位して世宗が即位、対馬からは「左衛門太郎」が祝賀に訪れている(是歳条)。
前冊と同様、本冊でも死没記事が多く、八月十八日条に斯波義教、十月十五日条に小槻兼治、十一月十七日条に一条経嗣、十一月十一日条に観覚法親王、十一月是月条に堀川具言、十二月二十三日条に二条冬実、是歳条に宗貞茂の卒伝を収めた。
斯波義教は管領、尾張・遠江・越前・加賀守護を勤めた幕府の重臣である。管領や守護としての事績の多くは、『大日本史料』に綱文をたてて収録されているので、本条では官歴、各国守護としての初見史料、世系、学芸に関する史料を中心に収めた。小槻兼治は前官務。官人として数々の朝議に参加し、『大日本史料』第六編、第七編には頻出する人物である。本条では世系、官歴、所領に関する史料を収めるにとどめたが、「壬生家譜」には兼治が出仕した大小の朝議が年月日付きで列記されている。それぞれの朝議に関する史料は『大日本史料』の関係する条に収められているので参照されたい。一条経嗣は現任の関白。二条良基の末子であるが、継嗣の絶えた一条家を嗣ぎ、関白を歴任すること三度、父良基を凌駕する才学の持ち主であったと「康富記」は伝える。事績や、日記「荒暦」の記事は『大日本史料』既刊分に収録されているので、本条には、官歴、家族、述作、学芸に関する史料を中心に収録した。兼良の父として知られるが、兼良は六男である。家嫡であった長兄経輔が病弱ゆえか前々年に出家、次~五兄は早くから仏門に入っていたためにお鉢がまわってきたらしい兼良が、父、祖父をしのぐ有職故実家となったのは皮肉な話である。観覚法親王は光厳天皇の孫で前東大寺別当、堀川具言は現任の権大納言である。二条冬実は南朝において関白・左大臣を勤めた人物であり、「看聞日記」には「玉櫛禅門」として登場する人物である。
宗貞茂の卒伝は本冊で最も多くの紙数を割いた条である。対馬守護職は応永十八年十一月以前に息貞盛に譲っているが、その後も実権は貞茂の手中にあり、朝鮮からは「島主」と呼ばれていたが、本年の三月ないし四月に没した。島内の所領安堵や公事免除などに関する判物多数を発給しており、そのうちの数点は『大日本史料』に既収であるが、本条においては重複をいとわず収録し、貞茂の発給文書の全覧とした。塩竃の安堵、水手役の免除、朝鮮通行船への課税、捕獲したイルカの分配や鹿肉の利用についての指示など、他の守護発給文書には見られない、民政にかかわる豊富な内容をもっている。なお、貞茂の父霊監(尚茂カ)の事績を付記した。
宗氏の判物については、原本のほかに、多種の書写本が対馬市厳原の宗家文庫、九州大学九州文化史資料室、大韓民国国史編纂委員会に分蔵され、延宝二年、貞享四年、享保八年、文化十一年、天保五年に対馬藩によって島内の判物の調査・書写が行なわれていたことが知られている。原本の残るもの、唯一の写本しか残らないものについては、当然それを採録したが、原本を欠き、かつ複数の写本が残るものについては、花押影のある宗家文庫本享保八年書上を最優先とし、以下、国史編纂委員会本貞享四年書上、宗家文庫本貞享四年書上、九大本の順を原則として、最も良質と判断される写本を底本とした。なお史料の所在把握、写本の性格理解をはじめ、本条編纂の全般にわたって九州大学人文科学研究院教授佐伯弘次氏、同PD荒木和憲氏にご助言をいただいた。また大韓民国国史編纂委員会所蔵本の調査にあたっては同会編史研究官田美姫氏にご協力をいただいた。厚くお礼申し上げたい。
(目次一八頁、本文四六二頁、本体価格一二、三〇〇円)
担当者榎原雅治・伴瀬明美

『東京大学史料編纂所報』第42号 p.31*-32*