48.鳥取県立博物館蔵「鳥取池田家文書」の幕末維新関係資料の調査・撮影

維新史料室では、一九七〇年に鳥取県立図書館に保管されていた鳥取池田家文書の調査を行った(『所報』第六号参照)。その際、藩庁や江戸藩邸での役用日記を中心に調査がなされ、また同時に「京阪書通写」や「風聞記」などの幕末期の政治情勢を伝える史料も採訪・撮影された。しかし、所謂史籍協会本『鳥取池田家文書』の原本を始め、所在がわからない史料が存在することが指摘されている。九七年に鳥取県立博物館から刊行された『鳥取藩政資料目録』により、七〇年当時閲覧していない幕末維新期の史料(たとえば、「国事関係書類綴」など)が存在することが明らかとなったため、今回改めて採訪と撮影を行うこととした(〇五年九月二六日より三〇日)。今回撮影したものは【撮影済】と表示した。
 現在、七〇年撮影した史料と併せて、整理を進行している。
364 江戸日記写 文久元年五月~九月 一冊
「文久元((表紙))年 江戸日記写
 酉五月朔日九月晦日迄」
藩主在府、藩主の同行と藩邸内の一件を留めたもの。記主は目付戸沢半兵衛と和田隼太が交代で当番。記載例を書き出す。
「              七月十五日  半天  当番 半兵衛
一中本軍太夫左之願書差出候間御聞届相成可然哉と御中老共申聞、願書相渡候付、聞繕之儀御供目付江申聞候処、御聞届相成り可然旨申遣候ニ付、其段申達候処、相伺候様申聞候付、奉窺候処、被遊御聴届候付、其段申遣候処、其通承置候様申聞ニ付、御門番江申付、御供目付へも申聞、往来帳記之
私儀於、御番所御用之透々炮術為修行、松平与次郎殿奥家来山田平七郎方并操練場江も罷出稽古仕度奉存候、此段奉願候、以上
    文久元年六月日           中本軍太夫
  岩越□太夫殿 」
文久元年八月二七日、大崎下屋敷(御殿山公使館用地として)差上の命があり、以下幕府とのやりとりが散見できる。
(八月二七日)
「一今日御用番松平豊前守様御呼出しニ而、左之通被仰渡候旨御留守居御手紙申越し、例之通御返答、御供目付江も申聞候
品川領下大崎村下屋敷、御用ニ付家作共可被差上候、代地之儀は追而可相達候、御普請奉行可被談候 」
(九月三日)
「本月五日、仏蘭西ミニストル并通弁官壱人・外国御奉行同道、大崎御屋敷為一見御越可被成、尤月日雨天ニ候ハヽ日延之旨、御用番安藤対馬守様御達し有之候旨御留守居以手紙申越し、例之通及返答、御供目付江も申聞候」
(九月五日)
「前記有之大崎御屋敷今日為一見
公辺左之御役人、左之通り被参、并異人両人罷越候付、御供目付小沢善四郎・中村熊之助御押召連罷越し候処、御屋敷間数等相改、無別条相済候段罷帰候達ニ付其段達御聴
  但し、御屋敷内間数等被相改候、□竹方何も構無之
外国方御奉行 水野筑後守殿  上同 鳥居越前守殿  外国方御目付 松平備後守殿  外国方調役 淵辺徳蔵殿  外国方定役元締役 山本悌三郎殿  御徒目付 福田作太郎  御普請役 川島小七郎  上同 益田多六郎  同心 坂戸小八  同心 平野雄次郎」
以下、九月七日には「阿蘭コンシユルゼネラール」が来邸する。関連記事は3641江戸御留守居日記にあり。
354 江戸日記 慶応三年七月~十二月  一冊
後半十一月以降は「無御別条」が目立つ。
(十二月二五日)
「一今辰刻芝通出火ニ付鳶之者火元見せ遣候処(様)、御供目付へ申聞候処、其内辻御番人小頭東条藤助松平修理太夫様御上屋敷・高輪御下屋敷共御焼払相成候旨ニ而、酒井左衛門尉様御人数御差向、戦争等相始り居申段申達ニ付、尚聞繕之儀申付、御供目付へも申聞、御用其外定詰たり共御門一切差出不申様申渡置、其段御側御用人江申談候
一右ニ付為遠見辻御番人等差出し候処、右之通相違無之、尤御上屋敷丈ケ戦争相始り、右屋敷不残焼失、高輪御屋敷は海手御長屋丈ケ焼失、其外所々江飛火いたし、火勢強く并午刻過戦争相止ミ、取押等も有之、過半片付候旨申帰り、同様之趣小頭東条藤助も申達候ニ付、尚又御側用人江申談し御供目付へも申聞候
一右ニ付御供目付・御徒目付共、昼夜不時廻り可被仰付之処、御上洛中右同様被仰付居申ニ付、尚又心付候様申渡候」
3075 江戸御用部屋日記 嘉永二年五月~十二月 一冊
 以下、嘉永二年の海岸深浅測量令の発布と実行に関わる史料を紹介する。
(九月二十七日)
「一、大御目付中♂左之趣御達有之候旨、御勤役申達ス(中略)
御領内海岸有之候ハヽ……」
(十二月二十六日)
「一、沖一峨儀、因伯海岸絵図面写被仰付候間、御留守居承合相認候様可申渡旨、日向殿被申聞候、其後切紙を以申渡ス」
一峨は、通称探三、藩絵師沖家第七代、天保十一年前代養子となる。嘉永元年正月二十二日、米子城絵図被仰付。
3107 江戸御日記(目録表題「江戸御用部屋日記」) 竪一冊
文久二年十月~十二月。江戸藩邸の日記。当該冊のカバーする範囲には、文久二年十一月五日の藩主池田慶徳江戸着から十二月四日の江戸発までが含まれる。慶徳は江戸で一橋慶喜・松平春嶽らに対し活発な周旋活動を行なったが(青山忠正「書評『贈従一位 池田慶徳公御伝記』」、『日本史研究』三七七)、当該日記には春嶽・慶喜との会見の事実およびその準備についての事務的記載があるのみである。他に、支藩主の池田清緝急養子一件(一月十八日卒)の記事が散見される。以下例示する。
(十一月五日)
「一一昨九時ニ御供揃ニ而河崎駅
御出駕、御途中無御障、今朝明ケ六時前被遊
御着座、御出入之御旗本衆其外御先キ衆御式台御使者之間江列座
(中略)
一今晩七時之御供揃ニ而松平春嶽様江被遊御出、夜五時過被遊御帰殿候事
一右被遊御出被 仰出候段左之通申遣ス     御前様御附
駿河殿                 落合金之助
宝隆院様御附
岡部善右衛門              岸本分右衛門
一右被遊御出候処、御供中江大弁当壱度被遣候付御用意之儀左之申遣ス
(中略)
一明日八半時之御供揃ニ而伝
奏屋敷江被遊御出旨被 仰出、左之通り申達ス
御前様御附
駿河殿                 落合金之助
宝隆院様御附
岡部善右衛門              岸本分右衛門」
(十一月六日)
「一今日八半時御供揃ニ而伝
奏屋敷江被遊御出暮六時過御帰殿被遊候事」
(十一月九日)
「一今日八時之御供揃ニ而松平春嶽様江被遊御出、夜五半時過御帰」
(十一月十三日)
「一今日九時之御供揃ニ而一橋様江被遊御出一旦御帰之上直ニ松平春嶽様江被遊御出、夜五半時過御帰 殿被遊候事」
(十一月十六日)
「一一橋様江
御自書壱箱被進候付、御附倉林五郎右衛門殿・中根長十郎殿迄切紙を添え御徒使を以相廻ス」
(十二月二十三日)
「一周旋方伊吹市太郎儀当御地江急御用向有之ニ付道中成丈ケ差急キ罷越候様於水口駅被
仰付、去十七日同所出立、東海道罷懸り今日到着之段申達、同役¥之添状差出、其段駿河殿へ申達ス
3597 江戸御留守居日記 嘉永二年六月~九月 一冊
 以下、嘉永二年の海岸深浅測量令の発布に関わる史料を紹介する。
(九月二十四日)
「一、御目付戸川中務少輔殿・井戸鉄太郎殿連名之以剪紙御呼出ニ付、今日御城中之口江定加役加賀美隼人罷出候処、左之御書付壱通左之出席ニ而御徒目付柴田貞太郎を以被相渡候
御領内海岸有之候ハヽ何国何郡何村誰領分一村毎ニ海岸里数丁数、海岸♂沖之方江三拾間目壱丁目、五丁目、拾丁目、弐拾丁目、三拾丁目等之浅深海岸左右隣領名前相給名前等迄巨細絵図面江相認可申候
御領内海岸有之候ハヽ、防禦手当人数武器等下美濃紙竪帳ニ相認可申候
一、御領内海岸無之候共、最寄御料所又は御両卿方領知清水領等之海岸江固人数差出候儀有之候ハヽ、右人数武器等前同様帳面ニ認可申候
一、異国船近海江渡来も候ハヽ、臨時警衛并防禦等被仰付候節之手当人数武器等前同様帳面ニ相認可申候
右之通り相心得、来る十二月中迄ニ可被差出候事
  九月」
3057と比較すれば、留守居日記は幕府とのやりとりが中心であることが了解される。
3598 江戸御留守居日記 嘉永二年十月~十二月 一冊
(十二月二十六日)
「一、当九月廿四日御目付中♂依御呼出御両国海岸并江戸近海海防防禦御手当人数等十二月迄書出し候様御達し有之候処、未御調行届兼候ニ付、左之通御出入御小人目付須藤忠四郎迄為持頼遣し候処、御目付本多隼之助殿江差出候処、御落手被成候旨申越候
因幡守領分因伯海岸里数丁数沖之方之浅深等巨細ニ絵図面江相認可差出旨、此度御達之趣奉得其意候、然る処、因伯海岸之儀は兼而波高之場所ニ而、冬向ニ至候而は、猶更浅深取調も行届兼候ニ付、依之暫時御猶予被成下候様仕度旨、国許役人共♂申越候、且又因伯并江戸近海手当人数武器等之儀も是又可申上旨奉得其意候
兼而厳重手当仕置候人数武器等帳面ニ相仕立、右絵図面出来之節一同差出候様可仕候間、何卒暫時御猶予被成下候様、此段申上候、以上
 十二月                  松平因幡守内」
3658 江戸御留守居日記 慶応三年五月~八月 一冊
 各月冒頭に、「五月御番」の幕府老中以下月番名前を列記し、「洞(龍之助)」と記名している。少なくとも二人の筆跡で書かれている。幕閣との交際の記事が主。大目付・目付からの達しについては別記している。
3760 京都御目付日記 元治元年七月八日~八月一五日 竪帳一冊
表紙には「京都日記/堀正次郎/元治元年/子七月八日ヨリ/八月十五日マテ」とかかれている。堀は、六月二十八日京都詰めを命じられ、七月八日京着。八月十四日国元へのお暇。
8989「堀諿熈家譜」によると、堀庄次郎は、
嘉永四年 十二月 四〇俵五人扶持
嘉永五年 三月 学館御趣向御用懸・御居間講釈、八月 儒学修行のため江戸詰め
安政元年 六月 御昵近、一〇月 学校文場学正、
万延元年 六月 役料三〇俵、御文学御相手
文久二年 九月 役免、一〇月 学校奉行学正兼帯、昵近・御内御用懸当分兼帯
文久三年 二月 御上洛ニ付京詰、 三月 御国へお暇、 
七月 松平大膳大夫様使者差向ゆえ京詰
元治元年 五月 目付役
という経歴をもつ。
3763 京都詰家老日記 慶応三年 一冊
「慶応((表紙))三年 日記草案 卯正月ヨリ十二月マテ
『[写((朱))済]冊中此印有ルハ、太政官焼失ニ付、甲戌八月謄写差出し相成ル御達書且願伺届ナリ』」
 正月十四日、家老荒尾内膳が留守居とともに伝奏飛鳥井を天気伺いのため訪問など、伝奏を介した直接のやるとりが行われている。
(二月十一日)
「円山佐渡儀、昨日之記有之趣ニ付、今朝御留守居同道ニ而伝奏野宮中納言殿江罷出候処、御直ニ勅答被仰渡、無御滞相済候段申達之
 右勅答写し左之通(天気伺への返答)」
(三月二四日)
「今朝伝奏飛鳥井中納言殿御留守居御呼出しニ付罷出候処、左之御書付被成御渡候段同人申達之
今度開港之儀別紙之趣従大樹建言候、然ル処一昨年十月三港勅許之節於彼地は被止候御沙汰之次第も有之、不容易重大之儀ニ付、猶早々上京見込之趣無腹臓言上可有之事」
(四月一七日)
「今日伝奏野宮中納言殿御留守居御呼出しニ付罷出候処、別紙御書付両通御渡し被成候段、同人申達之
別紙之通幕府江被仰出、就而は一昨日伏見大津江臨都英夷通行不容易折柄潜伏夷人も難計候ニ付、両駅は不及申、京師等一際厳重可警衛被仰出候旨摂政殿被命候事」
(四月十九日)
「今日伝奏飛鳥井中納言殿御留守居御呼出しニ付罷出候処、左之御書付壱通被成御渡候段同人申達之
  一昨日達置候英国も事実相違ニ付、不及警衛探索等‥‥」
(十月十六日)
「去ル朔日伝奏日野大納言殿御留守居御呼出しニ付罷出候処、御所司代伝奏衆江御達ニ相成候御切紙写し之趣ニ而、左之御書付御渡し相成候段、左之面々左之通申渡之、‥‥
非常之節御所御門前屯所江見廻役始組之者出張候砌、中立売御門・蛤御門繰入候積ニ有之候、就而は銘々小銃其外得物携混雑之折柄自然紛敷者等有之候而は以之外之儀ニ付、右御門々江屯所当番之与頭并肝煎之内為見知人出張、右之者御門相断繰込候積‥‥
  十月」
(十二月九日)
「右之趣(大政一新)御達有之候処、其内午後御所近辺何となく騒敷趣も相聞候付、不取敢非常受之面々半隊其外御使番等中立売御番所江繰出し、毘沙堂江繰込せ置候事」
3763京都日記 明治元年正月~三月 一冊
鳥羽伏見戦争時の警衛・出張人数書上:中立売御門御警衛一八〇人余、諸詰兵三〇人余、正親町三条殿へ二〇人、長谷殿へ二〇人、伏見表江出張罷在候人数二五〇人余、家老荒尾駿河守家来三〇人余
(四月十二日)
「相模守様御人数三八ノ日於聖護院村操練場調練被仰付候旨御達有之候処、兼而御筒不揃、行渡不申ニ付、当分左之御筒御拝借被成度旨御付人申達候付、武器方取調之上、無余儀次第ニは候得とも、当時御有合無之[ ]先明十三日限ミニイ銃三拾八挺、屓皮共御貸被進候儀承届候段、右同人江申渡之
  一、ミニイケール       五拾挺
     但し、短筒ニ而
  一、屓皮           五拾」
3769 明治三年京都日記(目録表題「京都藩邸日記」) 竪一冊
明治三年正月~十二月。表紙に「写済 冊中此印アルハ太政官焼失ニ付甲戌八月謄写差出シ相成ル御達書上願伺届也、該集控別ニ有リ」とあり。鳥取と京都との飛脚往復の記録(内容は記録されていない)、藩士の往来、京都における留守官・兵部省等とのやりとりなどを記録。次に掲げるのは「写済」の例。浦上キリシタン関係に多い。
「一藩江御預ケ相成居候夷宗門之徒、左之者儀去月九日女子出産致候段鳥取表より申来候間、御届之儀宜取計候様公用人江申渡ス
肥前国浦上村里
家野郷
伊右衛門妹
き   ん」
4738 御用部屋日記 嘉永三年正月より 一冊
(正月晦日)
「一、異国船渡来之節取計方之儀、文政八年無二念打払可申旨被仰出、其後去ル寅年漂流船之儀付而は、厚き被仰出之趣も有之処、近来漂流ニも無之船度々渡来、所々浦方江猥ニ上陸等致し、不容易事ニ付、実用手当之儀従公義之御触御家中江御触有之ニ付、触口之面々并軍用役人江も例之通相触候様、一昨日御家老中♂申来、則今日相触ル、委細触扣ニ記之」
6236 従江戸来状控 嘉永六年丑五月廿日認之 一冊
先ず、「従江戸来状控」のシリーズの成立に関わる史料を掲げる。
「丑(A)五月廿一日出、従江戸之月並御飛脚、六月二日到来、左之趣申来候付、同意之趣及返答、此度来状控仕拵、以後控置、朱書ニ而及返答
一、(B)以別紙得御意候、然は当御地御飛脚之節、此方御用状返答之分、是迄一々請ニして差向候事ニ候得共、此以後一通り之分江は、来紙ニ朱書入ニして差返、其余返答振有之候分江は、付札ニして差返し候様相成、并御平用御筋諸願或は御親類始メ達物等ニ至迄、都而答ニ相成候類は、右答之趣付札ニして差返し候様相成候得は、御用弁も宜、年々ニは自然余程紙嵩相減可申と申合、御用人江も其段申聞候処、至極之趣ニ相考、御用弁可宜段申聞候間、尚於其御地御談合否哉、重而御申越可被成被存候、以上
  猶以、御用筋ニ付札之儀、右之趣ニ相成候得は、以後願書歎書等之類は控壱通宛相添差出させ候方可然哉と申合候、右等取扱振新タ之儀ニ付、定メ之儀も御談合之上、是又否哉御申越可被成被存候、以上
『御((朱書))紙面之趣致承知、御同意ニ申合、則今便♂被成御申越候通、取扱候間、左様可被成御承知候、以上』
一、(B)千葉之助儀出立ニ付不及連名事
(以下四条略)
一、(C)追而申入候、此度之御飛脚今朝♂常割ニ而差出候間、左様可被相心得候、以上
一、(C)追而申入候、此度之御飛脚状数多ニ付、書状箱三ツ差出し候間、左様可被相心得候、以上
一、(C)追而申入候、去月廿一日♂同晦日迄之御用向別帳之通有之候間、左様可被相心得候、以上」
これによれば、江戸よりの書状は特別な物でない限り、来状に返答を記入(もしくは付札)して返送することとなり、来状の内容を控として留めておく必要が生じた。このため、来状の本文とそれへの返事(朱書)が記載されている。すなわち、Aの部分で差出日と受領日が記され、Bの部分で各書状の要約が(ここに示した書状は最初なので例外である)、Cの部分で各書状の本文が示されることとなる。
 以下、ペリー来航を報じる来状の記録を例示する。
「丑(A)六月六日出、月並八日割、同十四日到来
一、千葉之助儀帰着と存連名之事
(中略)
一、(B)浦賀江異国船到来ニ付、公辺♂御達書并夫々御手当被仰付候事
(中略)
一、(C)以別紙得御意候、然は此度浦賀表江異国船渡来ニ付、芝御屋敷御固心得之儀、御達有之筈之旨昨晩御出入御坊主片岡良格♂内々為知申越候段、御留守居申達候付、去ル戌年近海御手当御人数御届之儀も有之ニ付、左之面々江左之通心得被仰付旨申渡置候、則今日大御目付中♂別紙之通御達有之候段、右同人申達候付、猶又其段夫々心得之儀申渡置候、万一、此条臨時之儀も有之候は、其節は急飛を以可申趣と存候、此段得御意候、以上
永田権之進  
其方儀、今度浦賀表江異国船渡来ニ付、
公辺♂御固之儀御達も有之候はば、即刻芝御屋敷江被成御差出候間、其旨相心得可罷在旨被仰出候、
  但し、出張中騎士面々支配被仰付候事
『今度((綴込))浦賀表江異国船渡来ニ付、万々一内海江乗入候儀も難計候間、若右様之節は、芝辺より品川最寄ニ屋敷有之万石以上之面々ハ、銘々屋敷相固候心得ニ而罷在候様、無急度可被達置候事
  六月六日』
  宮崎平三郎
塩見 織衛
其方共儀、今度浦賀表江異国船渡来ニ付、従公辺御固之儀御達も有之候はば、即刻芝御屋敷江被成御差出し候間、其旨相心得可罷在旨被仰出候
(中略)
『御紙((朱書))面之趣致承知候、本文之趣善悪共様子相分候は、早々可被成御申越候、以上』」
「(Aの部分に、六月二十一日出、七月二日到来とあり)
  (Bの部分省略)
一、以別紙得御意候、然は先便申越置候通、浦賀表江異国船渡来ニ付、芝御屋敷御固御手当被仰付置、去る七日別紙之通御条目被仰出、右御手当之面々呼出し、於上御料間申渡候、其後諸家様江も御固被蒙仰候由、御留守居申聞候、同八日大御目付中♂尚又御達之趣ニ付、拙者儀二番手被仰付、并臨時御出馬御供立被仰出、御用人始夫々御供被仰付置候処、同十三日右異国船退帆之趣、又々御達有之候付、芝御屋敷御固人数御引取被仰付、則罷帰、夫々御目見被仰付、且拙者始御供等被仰付置候面々、夫々被成御免候、
 尚、委細之儀は追々日記写しニ而可申越候得共、此段御心得ニ申越候、
 右ニ付、御達書写等夫々差越申候、以上
『御紙面之趣、致承知、被成御廻候御達書等、夫々留置申候、以上』
一、以別紙得御意候、然は異国船渡来之節芝御屋敷御手当之大筒始、御手薄ニ付、御用人始申談之上、不足高取調差出し候様、勘定頭江申渡置候処、則別紙之通申達候、然る処多目筒当表ニ而為鋳立、諸式何程相懸り候哉、是又取調候様申渡置候処、右唐銅ニ而百拾両計ニ而吹手間炭代共一式相済可申旨、別紙之通申達候処、五挺も出来ニ相成候て、余程御入用相掛り候儀ニ付、一応御談可申越候処、此節柄臨時難計、并公辺♂御達之趣ニ而、若年寄中始、夫々海岸等御見分も有之候処、当時差懸り居申儀、往返懸合およひ彼是手間取候内ニは、諸家様ニ而も此砌段々唐銅御買上ニ相成、時々ニ直段引上候趣ニ付、少しも早く御買上相成候方可然旨、申聞候趣も有之ニ付、旁当表ニ而急々鋳立之儀承届候間、右様御承知可被成候、且右之外小筒其御地♂御取寄之分は御手船急ニ参し候取積」
「(A,七月六日出、同十六日到着、B省略)
一、以別紙得御意候、然は此度異国船♂公儀江差出候書翰和解被仰付候付、去ル二日別紙之通御留守居申達候処、右弐冊昨五日被成御下候付、則差越申候、尤、御書取は御手許江御留置相成候付、追而可申越間、右様可被成御承知候、以上
『御紙面之趣致承知、右書類は留置申候、然る処、御書取は御手許江御留置相成候ニ付、追而御申越可相成旨ニ有之候処、貴様江は右御書取之趣拝見被仰付候儀哉、御書取振有之事ニ候得は、御内々ニ而も拝見可被仰付義ニ申合候間、猶御考合可被成と存候、以上』
一、以別紙得御意候、然は此度異国船之儀ニ付而は、既ニ公辺♂御達之趣不容易渡来之趣ニ而、公辺ニ而も専御手当万端御配慮被為在、不一通御模様ニ相伺候事ニ有之候、右ニ付而は、諸家様とも詰増等色々御手当有之由ニ相聞、勿論いつれ尚又渡来之上、追々万一之次第ニ可及も難計、何分目度之付兼候儀、成丈之御手当無之而は相成申間敷と、彼是心配罷在候事も有之候、尚御手当等之儀は委細別紙ニ申越、其内追々御都合可申越ニは候得共、先頃已来御達示夫々申越置候趣ニ付、御考合之上、御談越も被下、其外諸事取扱方、此度之儀は公辺段々御世話有之儀ニ付、余り穏密之取計ニ相成ニ不申方可然と存候、尤人気立候而は不宜儀ニ候間、御考合可被成候、此段申越候、以上
『御紙面之趣致承知候、右御手当人数増詰等之儀、先便伺越候趣も有之ニ付、委細御報御申越可被成と存候、以上』
一、以別紙得御意候、然は別紙夫々申越候通、異国船追々尚又渡来之趣ニ候処、粮米第一御手当無之而は不相成儀ニ付、先見積考合候様、勘定頭江申渡置候得共、右御米当年中着船致し不申候而は其内異国船万一渡来、海上船路相留り候様相成候而は、江戸表之儀悪方□計相成、払米無之差支候様可相成儀と相考、若右等之節は三屋敷は不及申、三田鉄砲洲ニ至迄御見捨は難相成、其上御手当之面々詰増に相成候而は、尚更余程之儀ニ付、何分成丈急々積廻し相成候様ニと申合候間、尚御談合之上、宜御取計可被成と存候
此段御談旁申越候、以上
『御紙面之趣致承知候、右御廻米之儀、先頃長役江申渡候御手船御向候積ニ有之候処、右ニ而ハ急成事ニ相成兼候付、大坂表♂先三千五百俵当月中一同積出候筈ニ有之候、且御手船も一艘は是非共差向候様長役江申聞、致御用意懸居申処、尚又此度御申越被成候趣も有之ニ付、近々御手船差向候ニ付、右ニ而来春ニ至候而も余程御有余之積ニ有之候間、左様御承知可被成候、以上』」
続いて、大船、大砲製造についての来状を紹介する。
「九月廿一日出、月並常割、十月二日到来
  一、大船製造御免之義、御居残ニ而御達有之候事
一、以別紙得御意候、然は去ル十五日月並御登城被成、御老中御謁相済、御惣方御居残之上於桜之間別紙之趣、阿部伊勢守殿御書付ニ而御達有之、并同様之趣御廻状有之候旨、御留守居申達候付、右別紙差越候間、御談合之上宜御取計可被成候、此段申越候、以上」
「(十月二十三日出、十一月一日到着)
  一、大船新造之儀御達有之、先押送船一艘出来之儀申来候事
一、以別紙得御意候、然は此度大船新造之儀従公辺御達之趣も有之ニ付而は、先為御試押送船出来之儀御沙汰之趣も有之ニ付、先壱艘左之通ニして新造、急ニ致出来候様被仰付度段、御用人申聞候付、直段積之儀勘定頭江申渡候処、船道具一式請ニ而百弐拾五両御入用懸り候旨申聞候付、御談可申越処、前段之趣ニ付、無其儀承届候間、左様御承知、此旨長役江も御申聞可被成被存候、以上
  一、押送船 壱艘
   長サ 廿三丈三尺 中三尺 厚サ廿四寸
一、以別紙得御意候、然は大筒鋳立之儀ニ付、先達而粗積を以御談申越候付、其御地ニ而も御取調させ被成候処、五貫目筒は無之候得共、三貫目筒は弐挺有之ニ付、都合次第御廻し、其御地御手当之分は御鋳立させ被成候而可然共被成御申合候得共、筒に好有之候得は、其儀も難被成、其内地金計御廻し被成候而も、余程御入用減じ可申ニ付、古銅等成丈御廻し被成度旨、尤冬船之儀参着も遅り可申ニ付、兎角考合候様、当地長役も登坂中ニ付、其御地御吟味役♂申遣候趣ニ付、長役♂当表勘定頭吟味役江可申越ニ付、申出候はば宜取計旨御付札を以御報之趣致承知候、御申越之通地銅御廻相成候而も、迚も年内ニ参着も無覚束、其上地銅御廻し相成候迚、格別之相違も有之間敷ニ付、当表ニ而鋳立相成候様、長役♂も申越し候旨、勘定頭吟味役♂申達候、然ル処、西洋流打方手広ニ相成候様、従公儀御達之趣も有之ニ付而は、諸家ニ而も段々長筒出来之趣ニ付、先五貫目筒壱挺丈長サ壱丈弐尺位ニして出来致し候方可然と、御用人共申合、尚又直段積之義申渡候之処、凡千五六百両位も懸り可申旨、勘定頭申聞候処、下地御談申越候直段ニは格段之相違も有之候得共、長筒之儀は一通り之職人ニ被仰付候而も出来立も無覚束、其上地銅性合吟味致し候ニ付而は、彼是御入用も少く相増し可申候得共、千五百両位ニ而弐挺出来之儀は、今便御談済ニも相成候儀、其上先壱挺ニ而相済候趣ニ付、尚御談申越候得は、往返余程日合も懸り、急ニ出来兼候付、無其儀承届候間、左様御承知、此旨長役江も可被成御申聞と存候、以上」
「(十一月六日出、同月十六日到来)
  一、大船大砲用意修行等之儀、御達有之、相触候段申来候事
  一、亜米利加国♂差出候書翰之儀ニ付、和戦之儀上意之趣御居残ニ而御達有之候事
一、以別紙得御意候、然は去ル二日大御目付中♂別紙両通之通御達有之段、御留守居申達候処、右之内大船大砲之儀は御家中之面々江申渡可然と申合、近々申通しニ相触候間、左様御承知宜御取計可被成被存候、右別紙差越申候、以上
一、以別紙得御意候、然は去ル朔日月並御登城被成候処、御惣方御居残被成候様、大御目付中♂御達有之、則於黒鷲御杉戸際御老中御列座阿部伊勢守殿、別紙御書付被成御渡候旨、御留守居申達候、右ニ付、右御書付御用人を以拝見被仰付候間、左様可被成御心得候、右御書付写し壱通差越申候、以上
  猶以別紙御書付之趣、何れ惣方江も御聞セ可被成儀ニは申談合候上別而可申越候、此段も御心得ニ申越候、以上
亜墨利加合衆国♂差出候書翰之儀ニ付、夫々被建議候趣、各遂熟覧集議、参考之上達御聴候処、諸説異同は有之候得共、詰り和戦之二字ニ帰着致し候、然は面々被致建議候通、当時近海を始防禦筋未御全備ニ不被成候付、渠申立置候書翰之通、弥来年致渡来候共、御聞届之有無は不申聞、可成丈ケ此方♂平穏ニ為取計可申候得共、彼♂及乱妨候儀有之間敷共難申キ節到り、不覚悟有之候而は御国辱ニも相成候儀ニ付、防禦筋実用之御備積之心懸、面々之忠憤を忍び、義勇を蓄江、彼動静を致熟察、万一彼♂兵端を相開候はば、一同奮発豪髪御国体を不汚様上下挙而心力を尽し忠勤可相励と之上意候」
6240 従江戸之来状控 安政六年正月~十二月 一冊
「未十二月八日出、月次八日割、同十六日到来
  一、御本丸炎上ニ付、御普請御手伝之儀、御内願之通被為蒙仰候事
一、追而得御意候、此度御本丸炎上ニ付、御内御用頼井伊掃部頭様・間部下総守様江、左之御内願之趣、御留守居を以、被成御差出候処、去ル朔日御用番松平和泉守様♂御呼出ニ付、伊丹甚太夫罷出候処、公用人を以左之御書付被成御渡候段、右同人申達候間、左様可被成御承知候、以上
 御内願
  此度……被下候、以上
   十月十九日 御名
 御書付
御本丸御普請ニ付、御用相勤度旨内願之趣達御聴、尤之儀御機嫌ニ被思召候……御沙汰ニ候」
6241 江戸家老書状控 文久元年 竪帳一冊
「酉七月六日、不時八日割、八月四日到来
(中略)
一当時無宿甚七と申者、取調之儀来り居候処、最早取調答書ニ不及差出旨、申来事、
(中略)
一追而得御意候、当時無宿甚七と申者取調之儀、盗賊方より申聞候段、御留守居申達候付、其段去ル廿一日認、飛脚之節申越置候得共、最早取調答書不及差出旨申聞候段、御留守居より別紙之通申達候ニ付、則差越し候間、宜御取計可致成す候、以上」
文中の「別紙」はこよりで、原本がページのなかに綴じ込まれている。
「火付盗賊改大久保甚右衛門殿組同心永森平次ヲ以、御尋有之候、左之者儀、最早取調答書不及差出旨、同人より申達候、
                甚七
右之通御座候、
七月               御留守居        」
6242 従三都来状控 元治元年 竪一冊
(表紙)
「 元治元年
 従三都来状控
  子正月より 同十二月迄   」
「(前略)
正月十七日出京都より之御飛脚、同廿二日到来
一公方様二條 御城江被為 成候事
一御参 内之節、出雲様御供奉奉願之事
一左之面々御国江之御暇被遣候事
   米村小馬允 清水廣之丞 箕浦文之丞
一伊王野平六持参之 』御書、安達清一郎夫々相勤候事
一左之面々京着之事
   豊田鎌蔵 名越益之助 有沢兵之丞
一伊王野兵六持参之御建白、駿河儀傳奏野宮殿江持参、御落手之事
(中略)
一追而申入候、此度伊王野平六致持参候左之御方様江之 』御書之御使者、 今十七日安達清一郎相勤候段申達候、此段御序ニ宜被申上候、以上
一一橋様
一松平大和守様御始御老中御連名
(中略)
一以別紙得御意候、然者此度伊王野平六持参致し候御建白、拙者儀昨十六日傳 奏野宮殿江持参致し候処、無御滞御落手相成候間、此段御序ニ宜御申上可被下候、以上
 別紙
   口上
中将儀、昨十一月上京候様蒙 』 御沙汰候付、急速登京可仕之処、暫時御猶豫奉願深奉畏入候(…)方今切迫之御時節憂慮之至堪不申、別紙建白自昨日従国許差越候付、宜御執達被為下候様奉願候、以上
因幡中将家老 
荒尾駿河」
続いて四月十四日京都発書状の記事を掲げる。
「一先達而御製造ニ相成候左之御筒、御留守居より其向江致御届相濟候上、去 ル八日城州乙訓郡於上久世河原火通し見分無滞相濟候間、御序ニ宜被成御申上候、以上
一ホート忽微 六挺
猶以右御筒六挺御損しも無之、至而宜出来上り候処、先當表江御入用ニ茂無之間、右之うち壱挺、此度便舟も有之ニ付、其御地江為試相廻し候様、其手江申渡置候間、此段茂宜被成御申上候、以上」
次は五月三日京都発書状の記事。
「一(…)安達清一郎儀、周旋方頭取之御用向當分請持被 』仰付旨相伺候上、可申渡筈之処、河毛文蔵其御地江罷帰候処、周旋方頭取無之而者御不都合之儀ニ有之ニ付、無其儀去月廿四日申渡候間、御序ニ宜被成御申上候、以上」
なお安達清風に対し、翌慶応元年閏五月十八日には「周旋方頭取之御用向受持御免」の申渡が出ている(13259。『安達清風日記』には見えず)。
6288 案詞 安政六年正月♂十二月迄 一冊
来状控が鳥取藩庁に届いた書状の控えであるとすれば、案詞は、鳥取から各地へ宛てた書状の控え。収録形式も同じ。
「未十一月十日認、翌朝出、月並八日割
一、御参府御歓上ケ状之事
(中略)
一、公辺江御差出し雲州境絵図相廻ス事
一、追而申入候、当七月十七日御用番間部下総守殿♂御留守居御呼出しニ付、伊丹甚太夫罷出候処、公用人を以御書付御渡ニ相成、右御達し之趣ニ付、外国御奉行村垣淡路守殿江も罷越承り合、御城中ノ口ニ而別帳松平出羽守殿御方江被相渡候覚書、為心得被相渡、出雲国境港澗内之形勢絵図面之儀、其節及返報置候趣有之処、右絵図并取調書共出来差出し候ニ付、今便相達候様裏判御吟味役江申渡置候間、相達し候はば、被申上候上、万々宜取計可被申候、且又御留守居江為心得相渡候歩之書雛形之絵図共、在方♂差出候ニ付、是又右絵図と一所ニ差越申候間、夫々宜取計可被申候、以上
(付札)
御紙面之趣致承知、於絵図面等裏判所♂相達し候に付申上候上、宜取計可申間、左様可被成御承知候、以上
(中略)
一、以別紙得御意候、然は此度之御飛脚申談合之儀も有之、少々差延居申内、先達而従公儀御達有之候雲州境絵図面漸出来ニ相成候得共、今少々間ニ合兼候処、御飛脚久々不差出義ニ付、早々差出度、一向右絵図面は、不時ニ而も差出し可申共申合候得共、両三日之儀、今便相廻し候方都合も宜、外ニ急成御用向も無之ニ付、差延し候儀ニ有之候間、左様御承知可被成候、以上
(中略)
一、以別紙得御意候、然は今度長崎御奉行♂大坂表江左之通御達有之候旨、赤座為蔵♂申達候、然ル処右等之異船近海江乗寄せ候様之儀も難計、殊ニ近頃雲州浦方江交易場出来ニ可相成抔噂も相聞、左様之儀有之候ハヽ、節々乗寄候儀も可有之、其内薪水を乞候様之儀は与遣し可然儀ニ有之候得共、揚陸之儀は差留候而も、強而致揚陸候儀難計、其等之所取計方并揚陸之上及乱妨候様之儀有之節取計方等、弥隣国ニ交易場出来ニ候得は、被仰出等も可有之候得共、此砌之儀差懸不都合有之候而も不相成事ニ付、右ニ不限心得可然義相含、其筋内考之儀御留守共江御申聞被成候様致し度、此段得御意候、以上」6289 案詞 慶応元年正月~十一月 一冊
国許から江戸・京都へ発送した書付の控。
(冒頭)
「慶応元年丑正月五日認、月並御飛脚江戸・京都江
一尾張前大納言様5御人数御引揚ケ之御差図有之事、
(中略)
一追而申入候、
尾張前大納言様5旧臘廿七日松平三河守様御家来御呼出し、御用人桜井乙四郎ヲ以、左之御書付三通御渡し相成候旨、…」
鳥取から京都への書状の控。以下内容を例示。
(二月九日 京都へ)
「長州討手之御人数今般御引揚相成、先便申越候通中将様先月十日御帰陣被成以後ノ先始メ左之通致帰着、御人数不残引払候ニ付、尾張前大納言様江右之趣御使者ヲ以御届相成可然歟、左候得は御同人様当時御滞京中之由ニ付、其御地ニ而□使者ニ相成、右御使者御留守居被仰付候方可然と申談合、其段上御聞済相成候間、諸家様御振合も可有之ニ付、其等考合不都合無之様宜取計旨御留守居江可被申渡候、以上」
(四月二十五日 京都へ、水戸より借金申入れの件)
「此度之御飛脚水戸様¥御借用金御内談之儀ニ付被申越候趣も有之、右返報為可申越今日認次第二日八時割ニ而差出候間、左様可被相心得候
大坂ニ而岡崎平内江
一筆申入候
水戸中納言様御弟
民部大輔様京都表江御詰相成居申候処、無御余儀御内談之儀有之、左之通被遊候ニ付、御金同所江差登セ之儀宜取計可被申候、尚委細自筆を以申越候間、左様可被相心得候、恐々謹言
一金弐千両」
(五月二十一日 京都へ)
「御進発御日限も漸く御間近ニ相成候儀、諸家御人数御差出等之儀は如何様之御様子哉
(十月十六日、有栖川宮より借金申入れの件)
「有栖川様¥金千両御助情被遊之儀御頼有之由、先頃山田佐次郎罷帰候節御申含被成候趣同人申聞、致承知候、彼是詰合候処不外成御方之儀無御拠候得共、此御方ニも近年不時御物入続、莫大之儀ニ而御繰合付兼候折柄ニ付、御頼通りニは難被進、格別之御繰合を以左之通被進候間、御返答振御取詰宜被成御取計候、此段得御意候、以上
一金五百両」
「…((付箋))…然処向御方此節御来、御不自由之由ニ而猶又御談之趣有之候段御留守居申達候処、先頃西山平吉江御含越被成候趣も有之、依之金五百両之処御米百石被進候付、宜取計候様御留守居御勘定・御吟味役江申渡候間、左様御承知宜被成御申上候」
6290案詞 慶応二年寅正月 一冊
「寅七月廿三日認次第米子并一番手弐番手江之御飛脚
 一番手津田雄次郎江
一去ル十三日合戦有之、右事情申越候返報之事
一松平右近将監様御開城被成候旨申越し候返報之事
(中略)
 津田雄次郎江
一貴状令披見候、石州表合戦之次第柄去ル十七日認ニ被申越、委細佐分利鉄次郎江   被申含置候趣ニ有之候処、其後浜田表弥以及切迫、同十八日右近将監様御事御開城被成候旨恐入候御儀奉存候、依而一ノ先一番手御人数浅里駅迄引揚候段、右ニ付御注進旁被申上度儀有之、左之両人儀当表江之早追御使者被仰付、即刻致出足候付、委細之儀両人江被申含候旨申越候趣令承知、則右両人とも昨廿七日朝帰着、委細承り其断申上候、恐々謹言
                         米田浅右衛門
                         伊木粂之進
(中略)
  乾小四郎江
一貴状令披見候、浜田表弥及切迫、去ル十八日、右近将監様御事被成御開城候由恐入候御儀奉存候、就而は一ノ先壱番手共浅里宿迄御人数引揚候付、弐番手御人数も順々引揚屯場見計宿陣被致候心得ニ有之候得共、此余之処如何被相心得可然哉相伺、重而返報可申越旨被申越候趣令承知候、‥‥」
6291 家老用状案詞(原表題「案詞」) 慶応三年 竪帳一冊
「卯十月廿三日認、翌朝出、月並八日割、
江戸
一 役成其外為心得申遣候事、
一 日笠庄輔儀、一旦罷帰候様、□井備後より申遣候様、申聞置候事、
河合半次郎へ
一 上様を 公方様と奉称候由、触之事、
岡村幸助・佐藤清左衛門
一 左之者共儀、京都詰罷越候付、詰中岡村始メ、其支配被 仰付候事、
   宮地源之輔   森弥平太
京御留守居
一 大久保主膳正殿・小栗下総守殿より御達し趣相廻、返報之事、
伏見
一 山田家平儀、勤中
御心付銀貫目宛遣候事、
京御留守居衆両人江
一 大宮御所新立御取立銀之事、
江戸
一 追而申入候、此度之御飛脚今朝より八日□ニ而差出候間、左様可被相心得候、以上

一 追而申入候、此度之飛脚状数多ニ付、書状箱 相渡し候間、左様可被相心得候、以上

一 追而申入候、左之面々之儀、左之通り 被 仰付候旨、左之日限申渡候、此段為心得申越候、以上」
8647 御布告控書抜 慶応四年三月~十二月 竪帳一冊
京都での布告留め。慶応四年の通達を一覧するのに便利であり、通達経路も記されている。日付項目をたて、記事を抄出する。なお、六月二日以降は、「稲葉美濃守(淀藩主・稲葉正邦)衆」からの廻達は見受けられない。十月以降は、「長州様衆」からの廻達がほとんどとなる。
(四月八日太政官代より御渡)
「近来太政官ニ而日誌ヲ出版シ、広く天下ニ御布告被遊候儀ハ、上下貴賤トナク
御政道筋ヲ敬承セシメ、一意ニ方響スル所ヲ知リ、其條理上ヲ践行セシメントノ
御仁慮ニ被為在候ニ付、諸国裁判所・諸道鎮撫使・諸藩留守居等江御渡しニ相成候事ニ候、・・・・・・但、元幕府ノ預所・元郡代・元代官支配所江者、此度取締被 仰付置候、藩々ヨリ可通達、寺社領・陣屋向等江も其最寄之藩ヨリ可相達候事、四月」
(四月八日、太政官代より呼び出しのところ、まにあわず、薩州様より廻達)当主・嫡子・隠居・叙爵・俗名・実名など提出することとの指令あり。→五月二三日に提出。
(四月二十日、弁事局にて渡す)宮・公卿・諸侯・神社・寺院などの領地高改正を命じる。→判物を当表に取り寄せ、六月六日京着、六月十二日、朝廷へ提出
(四月二一日、越前様衆より廻達)諸寺諸山これまで幕府から許状をうけてきたものも、今後は、太政官代に願い出ること、公事訴訟はその国の裁判所に申し出すこと、大事件はそうじて願い出ること、従来藩で取り扱ってきたことはこれまで通り心得、別段書付を提出するには及ばず。
(四月二五日、越前様衆より廻達)各藩所持の軍艦・蒸気船・帆船は、船名・馬力・間数を詳細付き出すこと。
(五月朔日、稲葉美濃守より廻達)
「                       諸藩貢士江
別紙三ケ条
御下問被 仰出候間、各見込相認、来月二日
禁中仮建所江可罷出候事、
閏四月
議事策問
一軍事ハ民要ヲ保ツ所以ン、兵制ヲ定メ、海陸軍ヲ興ス、其術如何ン、
一金穀ハ用度ノ第一、庶政皆是ニ依テ挙ル、
一東軍未奏成功人心猶危懼ヲ抱リ不知何ヲ以テ勦殲鎮定其宜キヲ得ン、
一新著并翻刻之書類
官許之上、刊行可致之処、近来種々之書類、猥ニ刊行致し候段、不謂事二候、以後総而官許ヲ不経品、売買堅被差停候事、
閏四月」
(五月九日、稲葉美濃守殿衆より廻達)太政官の「万機御親裁ニ出」の布告。
(五月十日、稲葉美濃守殿衆より廻達)
「府藩県各印鑑ヲ製スベキ事、
但、某府印・某藩印・某県印ト刻スベシ、
(以下、府藩県は社家・寺院を支配すべし。伊勢両宮・大社・勅祭神社の外は、今後神祇官で直接社家の支配はしないこと)
五月」
(五月二七日、稲葉美濃守殿衆より廻達)参勤街道(城下より本街道何駅まで里数など)提出のこと
(六月二日、稲葉美濃守殿衆より廻達)諸藩留守居をもって公務を取り扱うのは不相当なので、今後は公務人の職は、貢士が勤めること、及び貢士の職務など。
(備前様衆より廻達)
*「朕今万機ヲ親裁シ・・・」の詔書。
*東京在勤
鎮将(東国軍の総裁。東国政務御委任、十三ヶ国管轄、諸侯の事件は総て取り扱い、大事は奏問)
議定
参与(立法の権執、議定官ノ体法)
判事(諸侯軍・社寺・刑法会計)
弁事(行法権執行、行政官の体)
史官筆生
(八月二十一日、水戸様衆より廻達)公務人を公儀人と改称
(八月二十七日、行政官達を水戸様衆より廻達)即位ニ付、諸藩公儀人は九月朔日参朝すること
(十月二十九日、長州様衆より廻達)「藩治職制」
(十一月三日、伊州様衆より廻達)「王政復古・・・新律御布令迄ハ、故幕府へ委任の刑律」による。
(十一月晦日、伊州様衆より廻達)行政官より。今後花押はすべて自筆のこと。
(十二月二十七日、越州様衆より廻達)
「今般府県別紙之通、地図明細ニ取調、差出し候様相達候処、府県限ニ而者、聢と難取調義も有之ニ付、藩之領地一同飛地とも色分ニシテ、早々取調、可差出候事、
但し、府県江も兼而相達し置候間、最寄府県示合、遺漏無之様、可取調候、尤も御領并他領入交無之藩ニ者、差出スニ不及候事、
十二月               行政官」
                      
一 国図                      壱枚
但し、一里三寸之見積を以て図取可致事
(以下、御領村々は朱印、宮堂上領の村々は薄朱、諸侯領の村々は白、中下大夫領の村々は青、社寺領の村々は黄、府県・城下・村々・宿駅・関門・社寺の記号、山は青、海潮沼川は浅黄、郡分は黒筋、往来は朱筋で描き、美濃紙・裏打ちし、「夫々色分ケ合紋を以」、分明に取り調べるよう、指示)
十二月 」
9036 千葉一胤家譜 竪一冊
一胤は周作の甥で、文久二年より藩周旋方を務めた北辰一刀流の剣術師範(一八二四~八五)。
(表紙)

千葉一胤家 従嘉永六年至明治五年
江戸定詰
剱術家     」
「一初代定吉
浪人千葉定吉与申者、剱術師範當表江居申候処、兄千葉周作儀者先年水戸様江御召抱ニ相成居申、右定吉儀未浪人罷在候処、右周作、定吉兼々心願之趣永田権之進より奉願趣有之處、忰重太郎儀も致師範居申、親子共急度御用ニ可相立者之由相聞候処、當表御家中内當時剱術致出精候得共、別段取立人も無之、尤都合之儀も有之由相聞候ニ付、旁以定吉儀、先左之通被遣候者御屋敷之面々茂取立致させ度含を以、御國表江懸合候上、嘉永六丑四月廿一日、永田権之進御座敷江呼出し申渡之
奥州浪人千葉定吉与申者、兼々北辰一刀流剱術於當表致師範罷在候處、急度御用ニ茂可相立者之由、兼而心願之趣も有之旨、永田権之進より精々奉願趣有之ニ付、先為賄料毎歳銀拾枚充被遣候事
同年五月朔日
一千葉定吉儀、此以後御屋敷稽古場江罷出剱術取立候様被 仰付旨、永田権之進江切紙を以申渡之、其段御用人を以申上置之
文久二戌十二月三日  江戸
一千葉定吉儀、左之通被 仰出候ニ付、宗岡泰輔より致通達候様御側御用人江申渡之
千葉定吉儀、先達而先為賄料毎歳銀拾枚宛被遣、其後剱術取立被 仰付置候処、追々出精取立ニ付、此度格別ニ剱術家業ニ被 召出、五人扶持被遣候間、弥以出精致し候様被 仰出候
但し御側御用人支配ニ被 仰付候事
同月廿日       江戸
一千葉定吉儀、先頃被 召出御扶持方被遣候付、為賄料毎歳被遣候銀拾枚者被 召上候事
文久三亥正月十八日  江戸
一千葉定吉儀、此度御家中之面々剱術師範被 仰付候間、鳥養又兵衛・山田宗平申談相勤候様被 仰付、其段御側御用人を以申渡之
同年二月四日     江戸
一千葉定吉儀、旧冬剱術家業被 召出候処、此度御禮席三日月充平次ニ被 仰付、其段御側御用人を以申渡之
慶應二寅十二月五日  江戸
(中略)
明治四未正月廿七日
一千葉定吉儀、依願隠居、実子重太郎江家督無相違被命、事跡末段ニ詳也
二代 一胤 初名重太郎
萬延元申十二月廿九日 江戸
一千葉定吉忰重太郎儀、當御屋敷稽古場剱術取立格別致出精候付、為御褒美左之通被遣旨、黒田日向江申渡之
一銀三枚
文久二戌十二月三日  江戸
一千葉定吉忰重太郎儀、此度被成御雇周旋方被 仰付旨、御側御用人を以申渡之
同月九日       江戸
一千葉定吉忰重太郎儀、此度周旋方被 仰付候処、大坂表者兼而御警衛之御場所も有之ニ付、同所江罷越致周旋度旨奉願趣、願之通承届、其段御側御用人を以申渡之
同月十二日      江戸
一千葉重太郎儀、今日京都江出足申事
同三亥正月廿三日   江戸
一千葉重太郎儀、御用有之ニ付急ニ出足、京都表江罷越候様被 仰付旨、御側御用人を以申渡之
元治元子四月廿三日  江戸
一千葉定吉忰重太郎儀、御内御用有之、御國江立帰被 仰付、尤十日割ニ而罷越候様被 仰付候事
同年五月十四日
一千葉重太郎儀、御内御用有之、當表江立帰罷越居申候処、猶又御用向有之ニ付、差急キ江戸表江罷帰候様被 仰付、其段御側御用人を以申渡之
但シ伊勢守様より大坂表江御用向有之御雇被成候ニ付、右御用相勤、夫より江戸表江罷越シ可申事
同月廿八日     江戸
一千葉重太郎儀、御内御用有之、御國江立帰被 仰付、罷越居申候処、猶又御用向有之、差急罷帰候様被 仰付、今日帰着申事
同年八月十四日   江戸
一昨夜御用番牧野備前守様より御留守居依御呼出、助役加納源右衛門罷出候処、左之通白木箱入左之御奉書被成候旨ニ而、御留守居差出し候付、和田平太夫請取之、右ニ付御國江早追之御使者千葉定吉忰重太郎儀被 仰付、右御奉書相守…(後略)」
なお重太郎は、慶応二年には六月三日に江戸発→京都着、八月二十五日京都発→九月一日江戸着、と移動している。
9749 安場正房家譜 一冊
 安場只蔵家の家譜書上。初代鈴木八右衛門は小浜浪人で、寛永年間に御鉄炮薬調合役として抱えられた。八代只蔵(判之丞)の倅が敬之丞正房。以下は抜粋。
文久二年八月十四日 御軍艦操練所翻訳方出役
文久三年一月十八日 砲術取立
同七月十三日 御台場御普請御用懸
同七月二一日 鉄砲類御製造懸り
同八月二日 八橋郡反射竈之大炮力試シ有之処御用‥‥
同八月十五日 大炮操練西洋流稽古教授仰付
同九月七日 大炮教授・野戦御台場築造相成候付右御用懸り
元治元年五月十二日 摂海御台場御取建御用ニ付登坂仰付
同九月七日 長州出勢御供仰付
同十月九日 神戸表御軍艦所砲術教授方出役仰付
慶応二年八月二一日 大炮小銃歩兵教導仰付
同十月十一日「安場只蔵儀倅敬之丞、勝安房守殿方ニ而兼而西洋兵学并砲術修業致し居申候処、相門始随身之面々師範之儀頻ニ懇望致し候ニ付、右師範為致度旨申達候段御軍式方頭取申達候付、其通承届候段同人を以申渡之、其段御側御用人を以申上置之」
同十一月十八日 足軽并歩兵師範役
慶応三年十月二八日 大炮小銃取立御免
同十二月十四日 足軽并歩兵師範役御免
9955 安達清風家譜 竪一冊
「六代清風初名清一郎
文久二戌九月十一日
昇実子
一三百石                        安達清一郎
内百石
無相違
実子之儀ニ候得者、御知行三百石無相違被 仰付、格式御馬廻り被 仰付旨、被 仰出候
同年十月五日
安達清一郎
其方儀、此度京都御留守居被 仰付、依之御役料並之通被遣、御禮席山部隼太次ニ被 仰付旨被 仰出候
但し昵近被 仰付、且又大原家急御使者被 仰付候間、用意次第出足、御道中枚方駅江御迎罷出可申事(中略)」
次は文久三年九月三日条。京都留守居の役料規定などがみえる。
「一京都御留守居安達清一郎儀、此節柄御用多、他藩付合等難渋之趣も相聞候付、先例者無之候得共、御役料并類役付合料等左之通被遣、下地被遣候仕人も其侭被□候、當夏渡り御役料者見積を以代銀ニ而左之通被遣、當秋米より御米渡可被遣哉与元〆申達候付、承届、其段今日之御飛脚ニ京都江申遣候
一御役料高百石
類役付合料
一銀弐拾枚
一銀札壱貫三拾目
此度御渡し」
10425 亡松田道之ニ関する史料 第一 竪一冊
「松田道之遺族所蔵 謄写物」と表紙にあり。第二以下は見当たらず。以下の松田宛書簡を収録。沖探三(守固、七通)、河田景與(三通)、木戸孝允(五通)、松方正義(一通)、伊藤博文(七通)、岩倉具視(三通)、井上毅(三通)、広沢兵庫(二通)、大久保利通(十通)、伊王野坦(一通)、大山格之助(一通)、三条実美(一通)。このうち大久保書簡は、『大久保利通文書』(一九二八年、日本史籍協会)に、「松田家所蔵」として収録されている。他に明治十一年十二月十二日付伊藤内務卿宛松田上申書草案(琉球処分関係)、十二月十八日付伊藤内務卿宛松田書簡、日付不明意見書案、明治十五年十一月十八日付足立正声口述「松田君履歴行状」(維新以前の松田の履歴を述べたもの)を収める。
10427 維新前後功労者略傳 2 竪綴 一冊
 全三冊(10426~8)。罫紙に記され、合綴されたもの。1・2は「諸家ヨリ差出之分」、3は死歿者・生存者の記事で分れる。
 ここでは千葉一胤の記事を掲げる(なお、年記の無い記事が殆どである)。
「千葉一胤履歴
養子嗣  
千葉 束
略 歴
姓 名  千葉重太郎一胤
幼 名  重太郎、明治弐年一胤ト改ム
父母姓名 父千葉定吉、母タキ
職 業  剱術師範
誕生地名 江戸杉之森、現今ノ日本橋□
生年月日 文政七年三月一日生
死之場所 京都府立病院ニテ明治拾八年五月七日病死
履 歴  武技、剱術北辰一刀流
千葉重太郎
其方儀、周旋方御雇其侭此度剱術教授頭取被仰付、依而格式諸奉行御禮席渡瀬槌之助次ニ被仰付、御役料四斗入三拾俵被遣旨被仰出候
但シ是迄為御雇料被遣候四人扶持者被召上候事
重太郎儀、当御屋敷稽古場剱術取立格別致出精候ニ付、為御褒美左之通被遣候事
一金二拾両
重太郎儀、九州邊探索御用被仰付候間、早追之心得ニテ罷越候様可有通達事
千葉重太郎儀、御用向相済江戸表へ罷帰候様被仰付置候ニ付、右附添被仰付候間、明日出立罷帰候様被仰付候
千葉重太郎  
御国表へ急成御用向有之候ニ付、道中早追ニテ罷越候様被仰付候
千葉重太郎儀、先達御内御用有之、当表へ罷越候処、引續御内御用有之、西國九州・四國筋等へ茂罷越、殊ニ九州邊ニテ者戦争及見聞、萬端探索之儀致出精候趣、其上方今諸色高直ニ付難渋之趣も相聞候ニ付、格別左之通被遣候事
一金二拾両
其方儀、江戸表へ急成御用向有之候ニ付、早追ニテ罷越候様被仰付候間、左様被相心得候、以上
二月十六日                     荒尾駿河
千葉重太郎
当春以来御用多端之処、御手支無之様格別出精相勉候ニ付、此度限り為御褒差遺((遣))候事
一金二拾両
千葉重太郎  
京都表江御用筋有之候間、用意次第急々ニ出足罷越候様被仰付候
千葉重太郎  
周旋御用出精相勤メ候ニ付、格別此度限り御心附トシテ左之通被遣候事
一銀拾枚
千葉重太郎儀、先達以来西国九州・四国筋御内御用探索罷越し居候処、此程致帰京候ニ付テハ、猶又江戸表へ御内御用有之候ニ付、昼夜兼行ニテ罷帰候様被仰付候間、此旨可致申渡候事
御自分塾中江諸藩之脱走或ハ浪士潜伏之者等差置候儀不相成候、仮令藩中タリトモ據所無之者に一伯も相断リ可申、此旨無急度可有御心得候、以上
(後略)」
13091 風聞記 【撮影済】 横半帳 一冊
以下の三つの合綴。
① 文久三円十一月十二日~十二月十二日までの、おもに上洛にかかわる触
② 「風説都之錦 上」文久二年~文久三年二月
③ 「風説都之錦 上」文久三年三月~慶応元年十月
 ②から暗殺記事を中心に内容を抄出する。
五月十五日 遊女自害、七月二十一日 島田左近殺害、八月朔日 文吉殺害、八月二十一日 本間精一郎殺害、八月二十七日 宇郷玄幡殺害、九月二十二日 渡邊金三郎殺害。
十月、有志士による書付には、御時節柄はばからず顔見興行に対し、不心得至極と南口表口に諭したが、全くやめる気配なし、南芝居を焼き払い、座元共召しとらえ誅殺、攘夷に深く叡慮を悩ませているところ向け気の費、恐れ入る、と記されている。
13092 風聞記 元治元年秋~慶応二年六月【撮影済】 横半帳 一冊
13092 風聞記 慶応二年七月~同十二月【撮影済】 横半帳 一冊
13122 戊辰役中御届書 因州藩旗頭和田壱岐
藩史編纂所写本。表紙に「鳥取藩史編纂事務所」印あり。現状では二分冊とされ、第二冊目の表紙には「戊申〔ママ〕役和田壱岐書上ケ」と書かれているが、内容は第一冊目の続きである(原本は一冊であったが写本作成時に二分冊としたものか)。本史料は、「和田壱岐戊辰役中御届書」及び「戊辰役和田壱岐書上」の書名で、『贈従一位池田慶徳公御伝記』の編纂材料として利用されている。
(冒頭)
「戊辰之春二月
御親征被 仰出、弊藩東山道先鋒被 命、同月京師出発、濃州大垣ニ会シ、 総督府之 命ヲ奉シ信州洗馬ニ至ル、於是因・土両藩ヘ甲州討手被 命、三月甲州ヘ入リ府城ヲ受取リ、進ンテ勝沼ノ賊ヲ破リ、江戸ヘ至ル、四月下野ニ進軍、安塚ニ交戦シ、宇都宮城ヲ攻テ復之、尚残徒ヲ駈テ日光ニ至ル、閏四月江戸ヘ帰ル、五月東叡山屯集ノ賊ヲ掃撃シ、同月忍・小田原ヘ出兵、函嶺ニ戦ヒ、六月奥羽出張被 命、海道進軍、七月磐城平城ヲ囲ミ、尽日烈戦、遂ニ抜之、続テ下浅見川徹夜激戦、広野ニ於テ終日奮闘、富岡・上手岡・新山・高ノ草・浪江等ノ各処連戦、勝ニ乗シ八月中村ヘ討入、椎ノ木・原竃・初野等劇戦、九月旗巻嶺ニ闘ヒ大捷ヲ得、十月仙台ヘ討入、残賊掃除トシテ海辺ヘ出兵、其後奥地平定、依之諸軍凱旋之 命アリ、十一月東京ニ帰リ、十二月西京ヘ凱陣仕候、右役中之事件、其節々不取敢総督府ヘ御届申上置候ヘトモ、軍事多端倉卒之間、不図誤脱之儀モ相生シ、又御日誌上事実相違間々有之、然処戦争始末前後一括ニシテ差出候様御達御座候ニ付、更ニ取調ヘ別帳一綴差出候、乍併猶遺漏可有之候ヘトモ宜御採択被為下候様、此段奉願候、以上、
因州藩
旗頭
明治元戊辰十二月                   和田壱岐
以下、内容抜粋を掲げる
一七月廿九日、御達有之、長・芸・筑・伊・岩国五藩ノ兵ト熊ノ町駅ヘ相会シ軍議既ニ定リ、辰刻整斉雷発、伊州兵全隊、長州兵一中隊ハ浜手ヨリシ、筑前兵一中隊、長州・芸州両兵ハ山手ヨリス、吾一軍ハ本道ヨリ新山駅ヘ兵ヲ進メ候処、前路ヘ賊ノ斥候兵隠見、樹陰ヨリ放砲候ニ付、佐分利鉄次郎砲四門、中村新之丞・大橋関弥二小隊、和田壱岐家兵前田真卿一小隊、池田相模守人数石川豊太郎一小隊、直ニ発砲行進、賊忽チ敗散、則追躡シテ駅中ニ討入、賊不支駅外長塚村新山駅ヲ去ル三丁ヘ走リ、風ニ頼テ火ヲ出口ノ民家ニ放チ致潰奔候、吾兵進ンテ同村ニ至リ、則兵隊ヲ以テ火ヲ援フ、賊嘗テ流言シテ曰、官軍ノ向フ所殺戮残暴至ラサルコトナシト、所在ノ村民驚駭手足措ク所ヲ失シ、家屋ヲ棄テ資財ヲ運ヒ四方ニ離散ス、当村ノ土民亦同シク近傍山野ニ潜匿スル者、現ニ今官軍救火ノ躰ヲ視察シ恐懼趣ヲ異ニシ、雀躍舞踊シテ群集駈来リ残燼ヲ治ム、依之一村火ヲ免ル、僅ニ村端ノ八九軒ヲ焼ク、官軍尚残徒ヲ駈テ進ムコト数十町、一賊ノ抗スル無シ、依テ未下刻兵ヲ新山駅ヘ引揚ケ、六藩ノ兵隊当駅ニ会シ、暫ク憩兵仕候、此戦吾兵死傷無之、斬獲分捕後ニ記ス、
【参考】8726 和田信美家譜(御家老壱家之内 上)
和田壱岐による「戊辰役中御届書」(13122)の作成について、本家譜より関連記事を摘記しておく。
(明治元年十一月十五日条)
十五日東京に着し八代洲河岸御邸に宿す、此日
慶徳公御使牧野七平西京より来り、左之通達せらる、
今般兵隊引揚ニ相成候ニ就而者、永々之在陣遠路戦地之辛苦御慰労被遊候ニ付、一隊々〔之〕軽卒ニ至ル迄、其頭目ヨリ戦功且艱難之始末自今取調置、京地江着、即日達 御聞候様 御沙汰候事、
但し委曲牧野七平ヨリ演達之事、
* 『贈従一位池田慶徳公御伝記』四の明治元年十一月九日条(八二九頁)及び同月十五日条(八三四~八三五頁)参照。
13205 西京記録 慶応三年十月~十二月
「池田家用所」罫紙、墨書。慶応三年十月十六日、大政奉還につき藩主池田慶徳に上京を命じる沙汰書から、同年十二月二十六日、再び慶徳に上京を命じる沙汰書までを筆録したもの。
13206 西京記録 明治元年五月~十二月
「池田家鳥取出張所」罫紙、墨書。明治元年正月~閏四月分は欠か。
13207 西京記録 明治三年~四年
「池田家鳥取出張所」罫紙、墨書。明治二年分は欠か。廃藩までの京都藩邸記録を編纂したもので、内容は朝廷・鳥取藩間の往復記録(達及び願・届等)。なお、明治三年以降は、留守官等(維新政府の京都出先機関)との往復記録となる。
*以上、「西京記録」各冊の分量はあまり多くない。
13209 東京記録 明治元年八月~十二月
「池田家鳥取出張所」罫紙、墨書。
13210 東京記録 明治元年八月~十二月
墨書(罫紙不使用)。13209と同内容(写か)。
13211 東京記録 明治二年正月~七月
「池田家鳥取出張所」罫紙、墨書。
13212 東京記録 明治二年八月~十二月
「池田家鳥取出張所」罫紙、墨書。
13213 東京記録 明治三年正月~八月
「池田家鳥取出張所」罫紙、墨書。
* 東京における政府・鳥取藩間の往復記録を編纂したもの。「西京記録」と同様、「東京記録」各冊の分量はあまり多くない。
13234 鳥取・東京5来御用扣 明治三年十月~十二月 一冊
鳥取藩京都藩邸の書類か。表紙に「冊中此印〔註・印文「写済」の朱印〕アルハ、太政官焼失ニ付、甲戌八月謄写差出シ相成ル御達書且願伺届ナリ、類集扣ニ別ニアリ」との朱書あり。「鳥取藩」罫紙に墨書。
以下、内容抜粋を掲げる
「午十月八日出、従東京之月並、同十二日戌刻到来、
一向後御用向等都而界紙ニ而申入候間、其地ニ而も同様取計可被申事、
(中略)
庚午十一月 日出、従鳥取月並、同廿八日暁丑刻到来、
一伯州日野郡江尻村小三郎忰深尾熊次郎与申者、其地兵部省兵隊中ニ繰込相成居候ニ付、旧籍并行蹟等取調、過日同様巨細及返報候様、同省其地出張所5懸合有之候段、先頃被申越候付、民政局取調候処、御支配地内江江尻与唱候村無之、依之同郡江尾宿ニも可有之歟与同村取調候処、右名前之者無之段、別紙之通届出候ニ付相廻し候間、此旨返報之儀宜取計事、」
13240 来状控 明治二年 一冊
国元・京都からの来状を東京で写し取ったものの控、ただし板状に癒着不開。
13241 鳥取西京府藩県等東京来翰 明治三年庚申十月より十二月 一冊
鳥取藩罫紙。八行青および黒罫。形式は、近世の来状控と同じ。
「閏十月十八日酉刻、到来 閏十月五日認
 一、両京江之月並御飛脚明朝♂八日割ニ而差出候事
(中略)
一、従朝廷御国絵図新規御改正ニ付、下絵図御渡ニ相成候間、早々民部省江御差出之儀、先達而御達有之候処、則出来ニ付、因伯之分弐枚相廻し候条、言上之上宜取計可被申事
  但し前後御渡之因幡分絵図令返却候間、宜取計事
一、御支配地郷村高帳御書出し之儀ニ付、追々申入置候趣ニ有之候処、漸出来ニ付、左之通相廻候条、言上之上宜取計事
  因幡伯耆郷村高帳  七冊」
13245 来状 明治四年正月~六月 一冊
表紙に「冊中此印〔註・印文「写済」の朱印〕アルハ、太政官焼失ニ付、甲戌八月謄写差出□相成ル御達書且願伺届ナリ、類集扣ニ別ニアリ」との朱書あり。「鳥取藩」(京都で使用された罫紙は黄土色、東京で使用された罫紙は青色)、「鳥取藩米子出張所」、「鳥取藩倉吉出張所」、「兵部省大坂出張所」、「兵学寮」、「京都府」、「大阪府」、「母里藩」罫紙等に墨書。
東京・京都(西京)・米子・倉吉の鳥取藩役所、政府機関、他の府・藩等より国許宛に送付された書類の原本を綴ったもの。
13246(江戸御用札控 残欠) 明治元年辰九月~十一月 一冊
「辰十月五日認、御国江之月並御飛脚差出ス‥‥
追而得貴意候、左之面々儀左之通り被仰付旨、左之日限申渡候、此段為御心得得貴意候、以上
  去月廿四日 
                三浦形馬
                        支配之面々共
摂海御警衛被仰付置候処、奥州表江御人数御繰出し之儀被蒙仰候ニ付、右御警衛被成御免、同所江出張‥‥
  同廿七日
                        武宮丹治
奥州出張被仰付置候処、田村平四郎付属之歩兵一番隊被成御差済旨被仰付置候処、蒸気船御都合も有之候ニ付、右歩兵御差添は被御止被成候」
摂海警衛兵員のうち二五〇名を奥州へ転進させ、残りの兵は東京出張を命じられるが、桂御所警衛も命じられているため、手薄なので東京行は免除してほしい云々
13256 来状控 明治二年三~十二月 一冊
 国元・京都からの来状を東京で写し取ったものの控、ただし板状に癒着不開。
13259 江戸京都より之来状控 慶応元年 竪一冊
(表紙)
「  慶應元年
 江戸京都より之来状控
   丑正月より 十二月迄  」
まず閏五月六日京都発書状の記事を掲げる。
「一以別紙得御意候、然者 』公方様来ル十五日頃被遊 』御着坂候筈之處、 』御滞坂中同所江重役相詰不居申而者御不都合之儀も可有之哉ニ付、小仕置御側御用人之内ニ而壱人同所江相詰、且御留守居茂壱人致下坂居申方可然与申合候処、御留守居共も當節別而御用多之儀ニ付、御用次第ニ而下坂致さセ度、依之江戸御留守居之内壱人大坂表江セ相詰候得者御弁利可宜共相考候得共、火急之儀ニ茂参り兼候ニ付、一向中嶋嘉助儀者下地御留守居役も相勤居申儀ニ付、同人大坂詰被 仰付候得者御都合茂可宜与申合居申内、同人御役被成御免候段、今便御申越被成候付、左候得者、右小仕置御側御用人之内御談合之上、何れぞ詰被 仰付可然与存候間、御同意ニも被成御考候者 』御着坂以前参着致し候様宜可被成与存候、猶委細自筆を以申越候、以上
(附札)
『御紙面之趣致承知候、先便申越候通、荒尾千葉之助儀大坂表江之御使者被 仰付、并山本恒太郎儀、江戸表ニ而御留守居加役も相勤御用弁も可宜与申合、千葉之助江付添罷越候儀ニ付、別段小仕置御側御用人之内ニ而者詰不被 仰付間、左様可被成御承知候、以上』
(中略)
一以別紙得御意候、然者御家中之面々大炮手續當御屋敷ニて當時致稽古居申処、小銃稽古茂為致不申而者励ニ悪敷ニ付、此度千本通り下立賣下ル御所司代組屋敷炮術場向方明キ日御借請相成候付、罷越稽古致し候様并足軽共も同様致稽古候様申渡し候間、左様御承知、此旨御序ニ宜御申上置被下度、此段得御意候、以上
一以別紙得御意候、然者左之御筒筋入与して大坂表江差下し、筋入致出来居申処。右御筒當表江御取寄相成候而も、臨時之節相用候程之地所も無之ニ付、一向其御地江積廻しニ相成候方可然哉之旨、渡瀬槌之助申出候處、右御筒之儀者、下地 』御聴入ニ茂相成居申儀ニ付、主水介様より御内慮御伺之上否被成御申越候筈ニ相成居申由、然ル處、此度槌之助代り詰も被 仰付候趣ニ而、引渡等之儀も有之ニ付、急ニ致差圖呉候様同人申出候間、御様子重便御申越被下度、此段得其意候、以上
  一雷震迦農御筒弐挺
(附札)
『御紙面之趣致承知、則 』御内慮相伺候處、當表江積廻し相成可然与之御事ニ有之候間、左様御承知、此旨御申聞宜被成御取斗候、以上』」
このように、附札による国許よりの指示も留められている。続いて閏五月十日京都発書状の記事を掲げる。周旋方人員配置について。
「(前略)
一以別紙得御意候、然者安達清一郎儀、去夏河毛文蔵其御地江之御暇被 遣候節、周旋方頭取之御用向當分請持被 仰付置候處、當時周旋方門脇少造壱人之儀ニ付、右頭取御免被遣候様ニ与清一郎申出候處、頭取無之而も相濟候儀ニ付、別紙申越候通御免之儀取斗候儀ニ有之候、且又右少造儀、周旋方御免、其御地江之御暇被遣可然与被成御談合候様之儀も可有之歟と存居候得共、當時御用向も有之候付、先其侭詰さセ置申度、并同人儀、席合其侭記録方・周旋方兼申助役被 仰付候得者都合宜儀も有之候間、御同意も被成御考候ハヽ、御伺之上重而御報御申越被下度此段御談、得御意候、以上
(附札)
『御紙面之趣致承知、少造儀、記録方助兼帯被 仰付之儀者御同意ニ存、則相伺候処、伺之通相濟候付、今便別紙申越候通之間、左様可被成御承知候、以上』」
次は八月十四日京都発書状、大砲鋳造関係の記事。
「一以別紙得御意候、然者先達而千葉之助話中當表ニ而大炮御製造被 』仰付候ニ付、渡瀬槌之助儀、右御製造懸り被 仰付、并桜木孫之進儀も同様被 仰付、槌之助儀、當座手形を以孫之進より御金請取、追々出来致し候處、右御入用當春町方手形を以孫之進江勘定付立置居申内、同人大病取結候ニ付、右勘定之儀別紙之通槌之助より申達候處、當表御勘定御吟味役者携不居申儀ニ付、如何相成可宜哉御談申越候間、元〆江も被成御申聞、重而御報御申越被下度、并に昨年 』御所變動之節御道具損し捨り等相成候付、捨り之儀も別紙之通槌之助より申達候、右等変動之節之儀ニ付承届可然共相考候へとも、一應御談し申越候間、御談合是又重便御報御申越被下度、右別紙両通差越し申候、此段得御意候、以上(後略)」
九月十六日京都発、京都詰に軍式方を要請する内容。
「一追而申入候、當表江御合圖役者相詰申候得とも、御軍式方詰無之處、御用弁之儀も有之ニ付、壱人詰被 仰付之儀、柄本竹之助より申立候、委細之儀者同人より御軍式方頭取江申遣し候筈ニ有之候間、申出候者宜取斗可被申候、以上
(附札)
『紙面之趣令承知、則別紙申越候通、三日月充平儀其御地詰被 仰付候間、左様可被相心得候、以上』」
13260 来状控 明治二年正月~十二月 一冊
 東京・京都から国元へ宛てた家老差出状の控。
13261 来状控 明治三年
「冊中此印有ルハ太政官焼失ニ付、甲戌八月謄写差出シ相成ル御達書且願伺届也」とあり。収録形式は、近世の来状控と同じ。但し、江戸(東京)に限られず、西京(京都)や倉吉、米子などもある。
「(六月十八日出、同月二十九日到来)
一、兵部省♂御呼出、半小隊市中取締御達し并被免之事
一、追而申入候、兵部省♂依御呼出致出省候処、去月晦日別紙之通御達有之、右は至急御用ニ付、外警衛場所も有之候得共、人数差出し之儀、永久之儀ニも無之ニ付、操合早々可差出旨并場所勤方之儀は、東京府承合可申旨、小沢大属を以口達有之候段、公用人申届候、然ル処、兵隊人員八拾二人之内病人多ニ而弐十人疱瘡致し、相煩候者十八人、跡四十四人之内ニ而皇居御門三ヶ所御守衛として隔番差出候儀ニ付、残兵僅ニ四人ニ而半小隊之人数も無之、右市中取締之儀何卒御免ニ相成候様、公用人を以為相伺候処、則別紙之通被免候旨、御届出候間、此段宜有言上候也
一、半小隊市中取締之義御達之事
一、右被免候事」
13262 京都御目付申送牒 明治二年正月~四月 一冊
 京都詰目付の御用留、横半帳。記主は吉田竹之丞・楢村元右衛門・高木又右衛門。
13247 御用札控 明治二年 一冊
 国元・京都等へ宛てて東京から出した御用状控
13527 明治三年 来状控 竪一冊
鳥取・京都から東京への来状。太政官の達により謄写の文言表紙にあり。以下は内容を例示。
(一月十五日)
「左之趣被 仰出候間、左様相心得、此旨其御地詰之面々江可被申渡、此段申入候也
別紙
東西西京(ママ)詰役懸之面々、御用出と唱屢御門外致し、専悪所江参り、剰他藩交接或は周旋之ため抔と名を付、猥ニ金銀を費し、実ハ自己之楽ミと致し、種々不心得之向も間ニは有之哉ニ相聞知、如何之事ニ候、以来重立候者は別而相心得、配下之標的と相成候様厳重ニ致し可申候、万一不埒之趣相聞候得は、御取糺之上急度被仰付品も可有之旨被 仰出候事
但し自由修行出之面々たり共厳重相心得可申事」
(三月三日)
「追而申入候、先般界紙之儀被仰出候処、右は諸伺達届等〔   〕節本紙・控共ニ相用候儀哉、且 知事御官署ニ而伺達届御差出之節も同様相用可申哉、巨細承合早々返報可被申越、此段申入候也
「界紙((付箋))之儀先達而御達シニ相成、其節相廻シ置候通、控ハ定式界紙相用候儀ニ有之候間、左様可被相心得候也」」
14564 慶應丁卯調濟國事書類 慶応二~三年 【撮影済】 一綴
 目録には「題字は池田慶徳」とある。
*「越土両老薩隅長良往復」
(慶応二年九月六日) 松平春嶽宛長岡護美書翰写
『長岡雲海公傳』巻二にて翻刻されたもの(二三三~六頁)。
(同九月七日) 島津久光宛松平春嶽書翰写
『島津久光公御実紀』巻五にて翻刻されたもの。
(同九月七日) 山内容堂宛松平春嶽書翰写
『続再夢紀事』所収のもの(一四~六頁)に同じ。
*「松平美濃守殿家来伺書」
慶応二年十月二十五日、長崎警衛の目的で「向寄御料所」を預地とし、砲台を新設する旨の、福岡藩願書写など。翌十一月二十一日、附札での裁可まで採られている。
(慶応三年二月十日)徳島藩願書写
藩士武谷巨介・内藤類次郎・久保田徳次郎の三名が英国留学するに当たり、旅行免状の下付を請う旨(なお『大日本維新史料稿本』では「史料不備」扱い)。
14565 国事筆記 【撮影済】 一冊
 慶応二年六月(第二次長州戦争)の各地の動静を伝える書類の綴り。特に諸藩との交渉ごとが多い。
「サツ州様♂
別紙家来共♂言上之趣、兼而申聞置候趣意御座候処、既ニ長州之儀御受書不差出候節は、諸手一同討入候様被仰出候趣承知仕候、御使足之上不容易御儀と恐入候得共、皇国之御大事ニ相拘り、且名分条理不相立候而は御請難仕儀、兼而確定之旨趣ニ有之、別紙ニも申上候通、於大儀難相済、不得止御断申上候間、宜御聞届被下候様奉頼候、以上
六月十二日                              松平修理大夫
日付十二日と御座候得共、御国元仕出し之日付共ニ御座候哉、廿六日坂地ニ而差出し候由ニ御座候」
「六月十九日達ス、安達清一郎♂差越ス
『大坂((包紙))会津公用方♂京地同役迄申越候書面』
以手紙申述候、然は御城♂御呼出ニ付、太一郎義桑藩一同罷出候処、岩田様御逢之上、広島表より九州四国分共御取束ね、八日差出之御着便有之候趣ニ而、左之通被仰聞
一、戦書持参之御徒目付石坂武兵衛滝田正作芸藩案内ニ而国界迄罷出候処、何分防州江不入子細を兼而御討入と御達有之候上は、右御書付等申請候訳無之旨、強而申立、何分致方無之引取候処、伯州公右ニ而決而不相成、是非相達候様被仰聞、則引返し、其節は新湊と申処ニ而岩田用人塩谷貞介と申者引合候ニ付、書付相渡候処、是非同様ニ而春川一手ニ而引受、宗藩・末藩へ達命之義は難出来、乍去御紙面拙者限り一覧致候儀は監物へ可相達、其上之義は如何様共難致趣ニ而、無拠一覧為致迄ニ而引取候処、此上は最早御通達ニ不及御討入と御決着ニ相成候事
  元塩谷と談判は有之事也
一、芸州家人数、何分惰気ニ而乗気無之、右を壱先ニ御遣被成候而は、折角振り居る彦根・高田等も同様可相成も難計、依之芸州家壱先御免、間道島々等取締向相心得候様被仰付、一ノ先は彦根・高田へ被仰付、右之次第諸藩へ御布告ニ相成候事
一、三兵隊歩兵四大隊大砲隊不残御持小筒組不残、防州大島郡へ取懸け之積ニ而、八日払暁宮島出船、尤厳島を足溜りニ致候事
  此分松山勢と相応じ、大島♂岩国へ取懸け之積、八日夕ニは同所へ取懸け之注進迄と有之趣
六日、四国路♂芸地へ御着便
一、松山勢先手菅五郎左衛門五百人之人数ニ而出立、式部大輔様ニは御同勢千余人ニ而五日御出張、三津浜迄御出陣、殊之外相振居候由
一、宇和島先手計三ツ杭と申処迄出張
一、阿州家は未タ出張無之
五つ時壱州公♂
一、九州路諸手尽る振居候得共、道程遠近も有之、未タ着揃ニ不相成、依而右御討入御見繕ひ大方八日迄ニは相揃可申候ニ付、同日♂御取懸り之御模様、壱ノ先は小倉ノ事
一、薩出勢之模様有之候ニ而、急速軍目被遊候様申越
一、紀州様ニは殊之外御振り之事
一、芸州江は敵兵小瀬川へ出張、大砲等仕懸け、随分堅固之由
右之次第共、別段京師へ不申上候間、当藩♂申上候様共、被仰聞候儀ニ御座候間、宜敷御取計被下度候
右之条々申述度如此ニ御座候
六月十二日                               坂地同所
 京師公用方」
14682 〔国事関係書類綴〕 慶応二~三年 【撮影済】 一綴
 慶応二年より翌三年三月まで。ナマの風説報知の状を綴ってあるもの。
(慶応二年十一月二十四日) 小笠原閣老建言
老中小笠原長行の辞職願書写。
(同年十一月二十五日)「薩藩より御用番美濃守殿江差出」
稲葉老中宛薩摩藩願書。旗本に「今般筒袖・陣股引相用登営致候様」達した趣意を承知したき旨。
(慶応三年正月 大宰府の三条実美ら五卿帰京関係書類写
(同年二月) いわゆる「長防士民中」願書写
(同年三月) 将軍慶喜による英米仏蘭四国外交官の大坂城中引見の式次第等。
「第一着禮式/第二途中警衛/第三旅待遇/第四謁見前手積/第五営中御規式御次第書/第六饗饌/第七被下品/第八遊覧」
(同年正月) 御規定書(朝廷文書)
(同年二月二日) 幕令写
熊本・久留米・島原・延岡藩に、九州幕領を預所として命ずる旨。
(同年三月二十日) 大小目付宛稲葉老中達書写
二十二日に下坂のため将軍が京発する旨。
「卯正月十五日御沙汰」
新帝踐祚に伴う朝紀振粛の沙汰書写。なお黄紙に記され、「傳奏書記塚本圖書より為知越候御書付二通」とあり、情報源の一端が判明する。
(慶応二年三月十四日) 伊王野平六書翰
「一去月廿七日、宍戸備後介より小笠原閣老并藝州江書面差出候様御座候得共、 其写しハ未タ京師へ相廻不申ニ付、詳悉なしかたく候得共、其要領者左之通と申事ニ御座候
  小笠原侯江差出候分之主意
  今般未タ家中始家老共被為召呼候様之所、昨年中御断申上候通之次第、今日と而も同様之義ニ御座候へ者、出藝之義甚六ヶ敷と奉存候、假令是非出藝と評決仕候とも、国内鎮撫行届候上非サレハ難罷出、左スレハ迚急速出藝仕候様ニ者相成申間敷奉存候、其段御諒察被成下、宜敷御取斗之程奉願候
藝州へ差出候分之趣意
未タ被仰渡無之候得共、窃ニ傳承仕候得ハ、十万石減封・父子蟄居与申趣之由、兼々申上置候通、頑固之士民共義、只長防両国有を知而天下を不知、又主人・父子あるを知而他ニ大切なる人あるヲ不知、殊ニ一昨年来謝罪之道を尽し恭順謹慎之外無他事被為在候、主人父子義、斯厳酷之御所置へ者何事ならんと痛歎之餘り如何様之事ニ立至候茂、藝州左様之事共万一御座候而者奉恐入候次第と痛苦之至ニ難堪奉存候、願者隣封之御交誼ヲ以長防之士民一同恐服仕候様、平常之御沙汰被仰渡被為下候様御周旋被下度と申主意趣
右書取之写手ニ入候得ハ、早々写取可申候へ共、前件之概略ニ候得者、被為召候末家并ニ家老不罷出事顕然、假令無理ニて罷出候共、昨年之如く代人両三人も罷出候へハ重畳と申位之事ニ而可有御座、又廣嶋へ差出候趣意なれハ、命を不奉事顕然之様奉存候
一薩州小松帯刀・西郷吉之介・芳井耕介京師ヲ去ル朔日迄ニ出立仕候趣、何れへ罷越候哉、種々巷説申觸候得共、未タ情実を得不申候
一今度外国より被帰候外国奉行柴田日向守殿之説話ニ、薩人之英・佛・ペルギイ之間ニ留泊致候者凡二十人斗り、殊ニロンドン府ニ薩之商館造築之掛合有之る所、英国ニ而ハ表向日本政府へ掛合聞済之上ニ非サレハ許容難相成旨答候ニ付、琉球商館と申名前ニ而已ニ造築等ニ取掛居り、夫ノ留泊人中後醍院才助・新納某之両人商館之支配頭ニ而、諸事取締方致候由、尚家老嶌津備後・島津圖書之両人、今春早々彼地へ渡海可致筈之誓約旧臘寄場滞留之営人と致候由、又柴田之帰路ベルギイ之港ニ滞泊之節、西洋文字ニ而サツマと相記し候船碇泊致有之ニ付、何れ之船と相尋候處、日本薩摩之船、彼類船八艘有之、更ル々々貿易ニ往来致候と土人申居候由
一長人茂十人餘も外国ニ滞泊、此者近来本国より絶而仕送り茂なく打捨ニ相成り困迫之様子、漸ニ薩人之扶助ニ而凍餓ヲ免れ居申候由
一門脇少造廣嶋江罷越居候得者、廿日前後迄ニ者彼地之模様一報ハ可仕と奉存候
一幕府より近比大坂市中へ三百五拾万両御用金被仰付候由、未タ御請者不致候得共、弥出金と相成候得者裏店住居仕候者も金五七両位差出可申様相成候趣ニ而、余程難渋と申事ニ御座候、方今京摂之間表面静穏之姿ニ御座候、其内情ニおゐてハ隠々種々之取沙汰も御座候へ共、確乎たる情実茂難探り留候得者、尚追々可奉申上候、以上」
14683 国事関係書類綴 【撮影済】 一綴
「彦左衛門様宛」とあり。
・ 四月二二日付彦右衛門様宛蘇武之助書簡(石帯の件)
・ 慶応四年家老達書(天朝仰出条々相守るべし)
・ 七月八日、荒尾但馬ら宛津田雄次郎書簡(御用達和泉屋勘助の件)
・ 甲子年十一月廿六日、於橋津御台場炮発
・ 「此度長討被仰出候ニ付而は、両国人民海上脱走之者も難計ニ付、為御取締左之場所江出張被仰付候間、惣而他国舟入津篤と取糺し、万一二州人民其外紛敷者有之候ハヽ老若男女ニ不限穏ニ相諭、其場所江留置、鳥取表江及注進可申、尤及手向候節は討取候而も不苦候事」
・ 慶応二年九月十七日
14684 国事関係書類綴 【撮影済】 一綴
(慶応二年四月一日) 代次郎昌盛・清一郎忠書翰(隼太・助之進・彦左衛門宛) 立石らの倉敷代官所襲撃情報など。
(四月十一日)
「桑藩立兄鑑之丞・山脇十左衛門へ出會直話」とある。
(四月十三日) 唐津藩・大野又七郎直話
(四月十五日) 水府・長谷川作十郎直話/会藩・諏訪半吉直話/水府・梅沢孫太郎直話
(慶応三年二月二十二日発の風説)次に掲げておく。目付梅沢守義談話がソース。
「 當月八日 上様御帰京後監察衆へ何角承り度候處…去ル十八日早天梅澤監察宅江参り候処、左之通り承り申候…
 一先達而申上候私見受候レーマン者、本魯人ニ而、佛ノミニストルの代りと相聞へ候へ共、全く佛人ニ相違無之よし、則ミニストルニ而ロセツと申候ものニ而、中々学者ニ而、都而何事不申出、解かた等至而上手なるものゝよしニ而、御役人衆も大ニ感心之様子ニ御座候
一右ロセツ者則國書持参之よし
一ロセツ者横濱ニ而民部大輔様江も相觸、御發明ヲ実ニ感服仕、御同方ハ  佛ニ當用之人なりと申居り候由
同所ニ而種々之珍味ヲ差出そ御饗応仕、我が国へ御越之上者色々と御卿應之趣向も有之候へ共、差向當所ニ而者致しかた無之、しかし舶来之食物者可珍ニ付、先今日者御稽古之為ニと而、百金余も御馳走仕候よし之所、民部大輔様御沙汰ニ、我此度各国ヲ廻ル者、馳走向食物之善悪ヲ調るニあらす、永く日本之為ニ相成義も有之ハと而各国を相廻候なりと被仰候御一言ニ感心いたし、此度御役人衆へ能々相咄候よし…
一彼申ニ者、我々も御親敷相越候上者、何とそ日本之御為ニ相成候様強く相成候様とのミ存込、御為ニ可相成義者いくらも深切ニ御依し之様、我国王申付候、御為ニ相成候様強く相成様と申上候ハ、定メ御疑も可有之候得とも、我が国者事火急ニ浅はかなる答ハ不申上、申さは先ヲ期て互ニ日本富国強兵ト相成候様御世話致し置可申候、万一佛ニ事ある節者御助成御頼申度、其節之一助とセんか為なり、 東照宮永ク世ヲ治メ給ひし其國政之立方之書物等我国ニ而ほんやくし見るに、実ニ感する余りあるなれとも、其頃之時勢と當節之時勢と者大ニ相違有之處を御弁へ無而者不相成、兔に角日本ヲ強くする之もと者海軍・陸軍之御趣向第一なりと申候よし(後略)」
14685 国事関係書類綴 【撮影済】 一冊
 主として文久二年の風説の留。以下例示する。
「五月廿二日、小川仙春院咄し
一、板倉侯水野侯評判宜しく、此程応接之節、是迄之例ニ而初応接之廉を以、異人♂金子為土産持参之

『東京大学史料編纂所報』第41号