大日本史料第十二編之五十八

本冊には、江戸時代前期の元和八年(一六二二)年末雑載のうち、検地、算用、開墾・殖産の条を収めた。各条文内の史料の配列は、五畿七道順の国別に分類し、各国の内は郡ごとにまとめ、複数ある場合は日附順と記載の多い順とを併用した。諸般の事情から採録を見送った史料もある。
検地条では、本年に作成された検地帳や同様の機能を担った帳簿、検地の施行を示す授受文書・記録・地誌等を収録した。
検地帳等は、後年の写しを含め一〇点を全文翻刻し採録した。石高制下の近世日本の土地利用の状況や生産力・年貢率を示す社会経済史の基本史料であり、今日では失われた当時の小字名や寺院名を伝える意義も重視した。豊臣政権による伊勢国文禄検地施行と紀伊和歌山徳川氏領への編入を経た村方での帳簿所持と領主への写し上呈の経緯(伊勢松坂御厨社地・伊勢下田辺村)、畠方からの京銭での年貢高表示(武蔵下忍村)、検地の案内者(下総飯塚村・長嶋村)、名請人の変化(下総飯塚村)、近江平田村田地の中藪村・長曽根村への移譲と彦根城下町人を含む名請状況(「北村太一郎氏文書」)、大半小歩制での丈量(上野下触村)等各地の実態が判然とする。
金沢前田氏領能登での新開分検地に伴い発給された打渡状の原本(「岡部文書」、「江・川・道・塚」の四つを高外地とする)、前田氏領・土方氏領錯綜地域での元和六年前田検地後の能登時国村庄屋による小縄入れ・ならし(均)による打出過分低減措置(「時国復一郎氏文書」)にも注目願いたい。
 算用条では、惣町・個別町・村・商家・寺社・幕府勘定所・同代官・同国奉行・大名家等での算用に関する帳簿や文書・日記・系譜史料等を収録した。社会の様々なレヴェルでの徴収や支出の具体像を把握することができる。
町の算用では、「くゝり」(括り銭)(「芝大宮町文書」・「京都冷泉町記録」)や備後尾道での「町打」(貫銀(つなぎ))(「渋谷文書」)といった町入用徴収の事例がみえる。
幕府の上方・関東方代官衆の江戸召集と年貢勘定査検、不正者の処罰記事(「長井長重日録」)、将軍秀忠から代官への皆済状発給(「寛永諸家系図伝」下嶋政直譜の所伝)、加賀金沢城主前田利常の小物成算用皆済状(「篠島家文書」・「瑞願寺文書」)、羽後久保田(秋田)城主佐竹義宣による算用査検(「梅津政景日記」)、前長門萩城主毛利輝元の周防山代蔵入地仕出銀算用状(「平川文書」)の事例からは、当時の将軍や大名たちが算用に深く関わり、皆済状等を自身の名で発給していたことを確認できる。また幕府豊後由布院蔵入地の元和五・六年年貢算用に関する小倉細川氏家中と幕府側との交渉の様相(「細川家史料」・「仲津江」)も興味深い。なお六年分勘定延引の理由を、『大日本近世史料 細川家史料』二―三三二頭注は江戸蔵前掘割工事とするが(一九七〇年三月、七頁)、関与する代官名や前後の関係史料の記載から大坂蔵前掘割工事の為と判断し訂正した(本冊二八〇頁)。
幕府代官関係では、草津市の調査による近江観音寺朝賢関係の「芦浦観音寺文書」のうち新出分(目録は『草津市史史料集 六 芦浦観音寺文書』草津市教育委員会、一九九七年三月に所収)を採訪し、元和六年分年貢米の大津蔵詰米・欠米・銀納分等の書上、先任代官市川満友下代から朝賢への七年分年貢米・大豆の郷蔵等残置分の書上、朝賢から幕府勘定所に上呈された八年分成箇帳の写(年貢下札雛形に続き、支配の村々を蔵入分・道(中山道)筋分・預所分・代官支配替分・田中吉興旧領に区分し、村ごとに永原茶屋屋敷成・草津伝馬屋敷成等の控除分も記す)、八年分小物成帳の写の四点を翻刻・採録した。
美濃国奉行岡田善同の年貢勘定目録は(「北方神社文書」)、岡田の手元に残され伝存した写である。岡田から江戸の勘定所に目録正本と写の二通が呈出されたと考えられ、江戸の勘定頭・勘定衆が写に裏書と連印・裏継目印・割印を加えて伝達したもので、表側の年紀(日附を欠く)下には、岡田の黒印も捺されている。文書の伝達回路・作成手順を推察できる事例である。翻刻に際しては、写真版をもとに、江戸時代前期の「秋鹿文書」(採訪マイクロフィルム)の類例や大野瑞男氏「年貢勘定目録からみた江戸幕府勘定所」(一九九四年初出、のち『江戸幕府財政史論』吉川弘文館、一九九六年所収)を参照した。
大名関係では、若松蒲生忠郷領内への蔵銭貸附算用(「簗田家文書」を新規に翻刻)、広島浅野氏の舟方関係の「御銀請取払方帳」(『広島県史』に校訂を加えた)、細川氏の算用における小倉の当主忠利の惣奉行と中津の隠居忠興方との関係(「仲津江」を割裂し新規に翻刻)にも注目されたい。
 開墾・殖産条では、職人・商人の保護、河川・池の堤普請、水路の開削、用水の配分、川堰の取立、新町・新村・新宿・新田畑の開発、個別町の起立、商家創業の家伝、舟大工作料の給付、入会入山・薪木伐採の許可、鉱山の開発・運上等に関する文書・記録・地誌・系譜史料等を収録した。
新田開発等に関する幕府代官・諸大名・旗本等領主発給の印判状を広く採録し、鍬下年季・諸役免除期間の記載は標出に挙げて明示した。遠江見付原井ケ谷新田での幕府代官中野重吉発給文書中の「大境之内、松植次第他所より鎌入」禁止の原則(「鮫島逸郎氏所蔵文書」)と、小倉城主細川忠利領内での鍬目を付けた者ではなく新田畠開作成就者を地主とする方針との対比も興味深い(「松井文庫史料」)。
近江栗太・野洲郡内の堤川除普請帳は、幕府代官観音寺朝賢下代から山岡景以手代宛てに提示された帳簿の控で、村毎の堤修理の規模・所要人数を知ることができる(「芦浦観音寺文書」)。
鉱山関係では、佐竹義宣領羽後諸鉱山の開発と運上の江戸城への納入、幕府納戸方の預り手形(「梅津政景日記」・「義宣家譜」)、堀直寄領越後沼金山の間歩運上目録(「堀家文書」)、佐渡金銀山関係史料(「佐渡風土記」ほかの地誌。諸本間の異同が少なくないが、注記は最小限に留めた)、豊前呼野村金山の開発についての細川氏関係史料を収録した(「松井文書」等)。陸中南部利直領朴山金山に関する史料は(「上閉伊郡小友村某氏所蔵文書」)、幕末期に陸中遠野郷の寺子屋で用いられた教科書であるが(及川儀右衛門氏「南部藩鉱山師丹波弥十郎関係史料」『岩手県史研究』一八、一九五五年二月)、佐渡でも活躍した山師の所伝としての意味を認め、採用した。
江戸時代前期の検地、諸階層・集団での算用、開発や産業振興に関する研究に本史料集を活用願いたい。
(目次一頁、本文三九二頁、本体価格六、八〇〇円)
担当者 山口和夫・宮崎勝美・及川 亘

『東京大学史料編纂所報』第41号 p.33-34