大日本史料第五編之三十三

本冊には、後深草天皇の建長二年(一二五〇)二月より十月までの史料を収録した。
 この間の主な事柄としては、先ず、閑院内裏の造営がある。建長元年二月一日閑院内裏が焼亡し、同年四月四日幕府が閑院の造営を奏したが、本冊の三月一日の第二条には幕府が閑院造営の雑掌を奏したこと、七月十三日の第一条には閑院造営次第日時定のことが見える。そのうち三月一日の第二条には幕府が閑院造営の雑掌を御家人に配分した目録を収めた。御家人の交名および御家人役の実態を示すものとして著名な史料である。
 二月二十日条には、丹波吉富荘と細川荘の堺相論に依り、六波羅と後嵯峨院庁が使節を派遣して実検を遂げさせたことに関する史料を収めた。史料はすべて「神護寺文書」であるが、この件に関して西園寺家・六波羅・後嵯峨院庁の間で交わされた文書により交渉の過程がうかがわれる。
 三月十一日の第一条には後嵯峨上皇の熊野御幸に関する史料を収めた。上皇の熊野御幸は前年三月に予定されていたが、大宮院の懐妊により延期されていた。この時、大宮院が懐妊していたのが亀山天皇である。
 四月二十八日条には、薩摩入来院内塔原名主寄田信忠と地頭渋谷定心との相論に関する幕府の裁許状を収めた。この相論は、三年前の宝治合戦における勲功により渋谷定心に入来院が与えられたことにより、在地の名主との間に生じた軋轢である。ただし寄田信忠は在地の名主とはいっても御家人となっている。定心は宝治合戦前に置文を認めていた(寛元三年雑載、処分・譲与の条に収める)が、入来院の獲得により公事負担の田数配分を改めた。十月二十日の条に置文を改めたことに関する史料を収めた。
 八月十四日の第一条には藤原定嗣の出家に関する史料を収めた。定嗣は後嵯峨上皇の伝奏を勤めた人物で、その日記『葉黄記』は寛喜二年(一二三〇)―建長元年(一二四九)の間の史料として貴重である。定嗣は建長元年正月十三日に権中納言を辞して甥高雅を猶子として右少弁に申し任じていた。定嗣出家後の世情について藤原兼経が一年後に書き記している感慨も興味深い。
 十月十三日条には鳥羽殿の後嵯峨上皇に対する朝覲行幸に関する史料を収めた。摂政藤原兼経の『岡屋関白記』には、後深草天皇(八歳)が作法を誤らず成人のように所作をつとめたことに万人が感嘆したことが記され、天皇の歩行が遅れていて、ようやく前年冬から歩行が可能になったことが回顧されている。天皇の歩行が閑院内裏の火災を契機として可能になったという説を裏付けるものである。
 本冊に伝記史料を収めた者としては、従二位菅原淳高(五月二十四日の第二条)、笛師従五位下行右近衛将監大神景基(六月一日の第四条)、非参議従三位藤原家季(六月是月の第一条)、神祇権少副従四位下大中臣隆繁(七月十七日の第一条)、高山寺定真(八月二日条)、前周防守従五位下塩谷親朝がいる。このうち定真は高弁(明恵)の弟子で高弁の臨終の記録を残した人物であるが、自身も夢に臨終の先相を得、兼ねての所存通りの作法で臨終を迎えた。その有様が弟子仁真により記されている。定真の臨終に関わる史料については、栂尾山高山寺(住職小川千恵氏)および高山寺典籍文書綜合調査団(代表築島裕氏)の格別のご高配により、原本より原稿を作成する便宜を与えられた。記して感謝申し上げる。また定真書写伝授の識語を八〇頁にわたり収録したが、これは高山寺典籍文書綜合調査団編『高山寺経蔵典籍文書目録』第一~第四(高山寺資料叢書、東京大学出版会刊)に依拠した。同目録が定真筆と認めるものはここに収めたものにとどまらないが、ここには定真の署名のあるものなどに限り、これを編年に配列しなおすことにより、定真の伝記史料として活かすことを試みた。
 五月二十二日条に執権北条時頼の妻が疾んだ記事が見え、八月二十七日条には時頼の妻の妊娠により祈精が行われたことが見える。この時時頼の妻に受胎したのが時宗で、建長三年五月十五日に誕生することになる。
(目次二〇頁、本文四四〇頁、本体価格九、四〇〇円)
担当者 近藤成一・本郷和人

『東京大学史料編纂所報』第41号 p.30*-31*