大日本古文書 家わけ第十 東寺文書之十四

東寺文書は、京都府所蔵、府立総合資料館保管の「東寺百合文書」の翻刻を継続している。本冊では前冊に引き続き百合文書「た函」応永三年より天文年間までの史料を収め、この函を終了した。
「た函」は、そのほとんどが東寺宝荘厳院方評定引付である。宝荘厳院方は、元亨二年(一三二二)、後醍醐天皇によって設置された勧学会の料所に、実質のない安芸国の所領にかえて、宝荘厳院執務職およびその寺領を充てることを東寺供僧が衆議した康永四年(一三四五)に成立の画期があったとみられる。したがってその目的は、勧学会衆(籠衆あるいは度者と学頭)の活動を支える料所の支配と得分配分、宝荘厳院から引き継いだ本尊の修造と供養、宝荘厳院関係仏事の執行などである。前冊が同方の組織の草創期から確立期にかけての引付であったのに対して、本冊は、料所の退転にともなう勧学会衆の衰退期に向けての同方の様相を示すものとなる。
また組織の点に関していえば、応永六年引付(三三号)十二月二十六日条に「明年奉行、廿一口方年預可兼帯云々、近年之儀如此」とあるように、応永七年より宝荘厳院方の奉行は廿一口供僧方奉行(年預)の兼帯となる。宝荘厳院方評定の構成員は、廿一口供僧と学衆であったから(富田正弘「中世東寺の寺院組織と文書授受の構造」京都府立総合資料館『資料館紀要』八)、供僧と学衆の兼帯が増加すれば、宝荘厳院方と廿一口供僧方双方の構成員は近似してくるし、東寺常住を基本とする廿一口供僧が評定の中心となるのは当然のことであろう。奉行兼帯の理由はいまだ明らかではないが、このような事情もその一端であったと思われる。各方の奉行は、評定を主催し記録を付けるのが職務であったから、当方評定の開催と引付の記録は、廿一口供僧方のそれと重なり、記事が相互に混在する場合があったようである。文安二年の宝荘厳院方評定引付(七五号)には、山城国上野荘の井水相論に関する記事がみえるが、これは本来、上野荘を料所としていた廿一口供僧・学衆方評定の議題である。逆に宝荘厳院方評定の議題が、廿一口供僧方の引付に記入されている例は、主なものでも応永三十三年、正長元年、永享三・七・十年、長禄四年、寛正二・六年、文正元年、文明十二年、長享二年、延徳二年など多くみられる。応永三十三年廿一口供僧方評定引付(「東寺百合文書」く函一二号、番号は京都府立総合資料館の目録番号)の五月十九日条には「此一ヶ条、移宝荘厳院引付了」という注記も記入されているが、たとえば永享三年の評定引付に関してみると、廿一口供僧方のものが存在し、宝荘厳院方の議題も含んで記録しているのに対し、宝荘厳院方の引付は存在していないから、あるいは特に別帖を作成しなかった場合もあるのではないかと思う(前冊掲載範囲であった貞治五年については、宝荘厳院方評定引付は存在しないが、同年の学衆方評定引付(「東寺百合文書」ム函四二号)に、関連する記事が多く掲載されている。この場合も奉行が同一であるなどの理由から、関係の深い両方の引付を一帖にまとめたものと考えられる)。
さて本冊引付の記事の内容は、度者(籠衆)の補任、料所の知行・代官補任・年貢収納、供料の配分などが主なものである。
度者の所望は、まず所望状を学衆方奉行に提出し、奉行はそれを廿一口供僧方へ送って宝荘厳院方評定において披露する。補任決定後、本人の請文と師匠の諷諫状とが整えられ、所望状とともに学衆方奉行がこれらを管理する。諷諫状とは、度者に不義不調あるときは、戒めを加えるべき旨を約した師匠の請文である(九二号および「観智院金剛蔵聖教」二一三箱一九号置文等総目録)。
この度者を支える料所をみてみれば、この時期、年貢が確保できている宝荘厳院方の所領は、ほとんど近江国蒲生郡三村荘の嶋郷のみであった。近郊白河の宝荘厳院湯屋・僧房敷地(阿弥陀堂敷地)は聖護院の知行下にあり、容易に回復できずにいた(三二・三四・四五・五九号)。その隣の宝荘厳院跡の敷地内も幕府の奉行人らに押領されている(七七・七九・八七・九五・一一五・一一六・一一七号など)。三村荘に関しては、近江守護六角氏から半済、しかも二重の半済を実施されたり(四四号など)、課役・段銭を賦課されたりしているが(四八・五七・九四号など)、また荘経営に関しても幕府や守護の援助なしには成り立たない状況であった。たとえば守護代伊庭方に毎年収めていた「警固米」は、経営援助の契約に基づくものであろう(七四号)。三村荘の東寺分年貢は、早い時期から、荘公文が配付する切符を、各領主が自力で名に付けることによって収納されていたと考えられ(一二二号)、確固とした下地支配をなし得ていない荘園領主にとっては、諸方への働きかけと請負代官の能力とが頼みであったと思われる。
三村荘東寺領分給主の請負代官については、この引付とともに「百合文書」中の関連史料を用いることによって、室町時代の他の東寺領と同様に、補任の変遷とその機能を詳しく把握することができる(三村荘代官については、村井祐樹氏「東寺領近江国三村庄とその代官」(第Ⅲ期第一二回東寺文書研究会報告 二〇〇五年十二月)がある)。補任に際して興味深いのは、敷銭を納入するか請人を立てるかの二者択一を領主が要求していることである(六四号)。敷銭が年貢未進の補填を目的として徴収される身元保証金にあたるものであるという中田薫氏の指摘(『法制史論集』第三巻下)を端的に表した事例であるといえる。また補任後幾ばくもなく改替されたことを理由に、任料一倍分の返還を求めた例(六八号)、代官職改替の風聞により借物が叶わず、年貢の寺納ができないという例(八一号)もあり、代官の経営を推測する素材となると思われる。
 その他では、寛正の飢饉に関して、同元年九月の記事に、「当年者、事外草木遅々」と作物の生育遅れがみえ、年貢催促使の下向も延引せざるを得ない状況が記されている(九〇号)。
 宝荘厳院方評定引付以外の文書は、山城守護奉行人奉書・室町幕府奉行人奉書で山城国散在所領や若狭国太良荘に対して段銭や役夫工米の免除・撰銭禁止・年貢公事納入を命じたもの、西岡・中脈地頭御家人中に対する軍勢催促の幕府奉行人奉書、山城国上野荘内検帳、赤松政則雑掌上原祐貞書状、細川氏綱被官多羅尾綱知書状などがある。
(例言三頁、目次九頁、本文三一八頁、花押一覧一頁、本体価格七、六〇〇円)
主担当者 高橋敏子

『東京大学史料編纂所報』第41号 p.37-38*