大日本近世史料 市中取締類集二十七

本冊には、旧幕府引継書類の一部である市中取締類集のうち人足寄場之部一冊、非人寄場之部一冊、および追加市中取締類集のうち奇特御賞・非人寄場・上納金之部一冊のうち非人寄場之部・上納金之部を収めた。
 人足寄場之部には、文政四年(一八二一)十月および天保十二年(一八四一)九月から弘化三年(一八四六)十二月までの一二件を収める。天保十二年九~十月、江戸払以上追放者や府内無宿野非人の人足寄場への引渡しを再開する旨が、評定所一座で評議の上決定されている(第一・二件)。同年十月、町奉行が寄場奉行に、人足寄場等の絵図の提供を要請している(第三件)。同年十二月から同十四年三月にかけて、寄場内で手業に出精し改心した人足に、赦免の上市中で店を持たせることが検討された(第四・五件)。同十三年十一月~翌年二月、人足寄場に無宿女収容用の別囲が取立てられることになった(第六件)。同十三年十二月~翌年四月、寄場人足が増え人足部屋が不足のため、人足の引渡しを停止するよう寄場奉行から町奉行に要請があり、浅草溜後非人寄場への一時収容も検討された(第七件)。天保十五年七月、重労働に耐え兼ね寄場逃亡を企てた人足を取り調べた町奉行が、人足の待遇改善を目付に求め、目付から食事や飲み水等を改善する旨の挨拶があった(第八件)。弘化三年正月の寄場類焼後、外構・矢来の取立てのための材木買入れにつき、寄場奉行より町奉行への要請があった(第九件)。北町奉行阿部正蔵が、寄場人足の引渡し方、無宿非人の引渡し方に関して問い合わせをしている(第十件)。第十一件は、文政四年十月、人足寄場を逃亡した無宿人が自訴した際の御仕置の評議である。弘化三年正月の火災で人足寄場が類焼するが、その際に切放しになった人足の引渡しの手続き、火災時の避難の方法や避難先等が、町奉行と寄場奉行等との間で検討されている(第十二件)。
非人寄場之部には、天保十三年十二月から嘉永六(一八五三)年六月までの一一件を収める。天保十三年十二月、無宿非人寄場を早々に取建てるよう老中の指示が出されたのを受けて、同十四年二月、浅草溜の後ろに寄場が完成し、三月には無宿非人等の寄場入が申し付けられた。町奉行から寄場入用や出精者の扱いなどについて非人頭に申渡があり寄場条目が示されるとともに、寄場の見廻りと取締が牢屋見廻与力に命じられ(第一件)、寒気を凌ぐ手立て(第二件)や、草履・草鞋を作る手業の出精者に対する褒美銭の下付や小屋持等への取立て(第三~六件)、寄場入用の賄い方(第七件)等をめぐって対応が検討されている。取建四年目以降は下付されなくなった入用を手業売払代では賄えないため、穢多頭へ寄場を引渡すことも視野に入れ入用の節減や出方仕法について検討が続けられていた(第八件)が、嘉永元年十月、浅草溜出火の際切放され鎮火後に戻ってきた非人寄場人足が赦免された後は寄場入の者もなく(第九件)、穢多頭は取調の猶予を願った(第一〇件)。翌年、屋敷所持者や遊女屋等からの助成見積を添えて穢多頭から提出された仕法書は不適当と判断される一方で、老朽化の進んだ小屋を畳むことも考慮しつつ野非人の扱いの確認と人足寄場の火災時における立退先の検討が行なわれていたところ、嘉永六年五月に小屋が倒壊、寄場を当面畳むことが町奉行から上申され、非常時の立退方についても寄場奉行と再度打合せて上申することになった(第一一件。追加市中取締類集所収)。
 上納金之部は、嘉永四年十一月から同六年十二月までの八件を収めるが、第一件は、江戸城本丸炎上(天保十五年)の際に焼灰中から拾得された焼金物の取計方に関する嘉永四年十一月の伺書で、直接上納金に関係するものではない。第二件以下は、第四件を除いて、嘉永五年に炎上した江戸城西丸の再建普請に対する上納金に関するもので、同年十月から翌年三月にかけて、町方御用達や蝋問屋・茶問屋等々から上納金願いが出されている(第二・三・五・六・七件)。また、同六年正月には町方御用達等が熨斗目着用を願い出ており(第五件)、同年十二月にはもう一人が熨斗目着用を願い出ている(第八件)。なお、第四件は、嘉永五年六月に、西丸炎上跡の灰土の水干試しを願う者が現れたが不許可となったという一件である。
(例言一頁、目次二四頁、本文三九六頁、本体価格八、二〇〇円)
担当者 佐藤孝之・杉森玲子

『東京大学史料編纂所報』第41号 p.34*-35