33 京都大学附属図書館所蔵「薩戒記」の調査

二〇〇五年二月一六・一七日に京都大学附属図書館に赴き、平松文庫・菊亭文庫のうちの「薩戒記」写本および逸文の調査を行った。主要なものは以下のとおりである。
一、永享十年記                (平松五-エー一)一冊
   「薩戒記」別記「八幡御参詣条々」(永享十年三月三十日に行われた足利義教石清水八幡宮参詣の兼日記)の写本。
一、凶服部類                 (平松四-キー八)二冊
   正長元年七月の称光天皇、永享五年十一月の後小松上皇崩御に関わる「薩戒記」の記事を含む。
一、直物事                  (平松四-ナー四)一冊
   中山忠親作「直物抄」の写本。
一、放生会御参向兼日記            (平松三-ホー四)一巻
   三十八紙。「薩戒記」別記で、永享十年八月十五日の足利義教石清水八幡放生会参向の兼日記の写本。室町末期の書写か。複数の筆跡から成るが、墨で抹消されている部分なども写されており、原本の状態をよく伝えるものと思われる。
一、御八講記                 (平松六-コー六)七冊
①御八講記 久安四年
  (奥書)「左衛門督藤原公教奉仰記之、
       本云、宸筆御八講記 久安四 三條内府公教記」
②御八講記 長治元年 中右記
   奥書なし。
③御八講記 文永七年
  文永七年十月の後嵯峨法皇宸筆法華八講の記録で、「御八講次第」「御八講記」「宸筆御八講雑事」の三点を含む。いずれも上卿を勤めた花山院通雅によるもので、奥書から中山定親の書写にかかることがわかる。
  (御八講次第奥書)「応永卅二年三月十三日、於燈下即時書写之、
                      参議左中将藤原(花押)」
  (御八講記奥書)「申請花山院、応永卅三年三月廿五日、於燈下馳筆了、
一校了、
諫議大夫藤原(花押)定親卿判」
「宸筆御八講雑事」は奥書なし。
  応永三十二年四月二十二日から二十七日にかけて(三日目が雨だったため、一日繰り延べになった)、後円融天皇三十三回忌宸筆八講が営まれた。「薩戒記」には、定親が後小松上皇の意をうけて、花山院持忠邸に赴き、同家所蔵の宸筆御八講記録を選出、書写したことがみえる(三月六~九日条)。三月十二日条には、花山院通雅記を先例として参照した旨の記事もあり、定親による同記書写が裏付けられる。(彼は、翌応永三十三年の叙位・除目の際にも花山院通雅記を参照している―正月六日、三月二十九日条―)。この時期、定親はいくつかの記録を花山院家から借用・書写している。応永三十三年八月十六日条では妙槐記を借用しているが、現存する同記写本には「応永卅三年以正本書写了、参議左近衛中将藤原判」「応永卅三年八月十九日、自昨日晩頭以正本書写了、」の奥書をもつものがある。また「柳原家記録」四十三の「私要抄 叙位 恒例臨時竝女叙位」は甲「山槐記」、乙「花内記」(妙槐記)から成り、両記から叙位に関する記事を抄出したものだが、後者の奥書には次のようにみえる。
「寛正三年正月叙位之議、依有不審事等、旧記尋探之間、中山亜相(親通公、)借与之了、故平〔尹〕亜相入道山槐記已下之内抄出之云々、予於灯下写留之、仍忩劇不能校合、定書写之過可為繁多、後見之人能々可思慮者也、
右以或家古巻(帥大納言公綱筆跡歟、)令書写了、以〔於カ〕除目部者、邂逅有之、於叙位部者、絶而不伝歟、今得此珍記、可謂幸甚、(今度為二巻、)最可秘焉、
寛政八年九月廿六日 正二位藤(花押) 」        
 定親が「山槐記」「妙槐記」から作成した叙位部類を、息子の親通から三条公綱が借りて写し、さらに柳原紀光が写したわけである。定親にとって「妙槐記」は、故実の情報源として「山槐記」とならぶ大きな意義をもっていたと理解できよう。
 このほか応永三十三年八月九日条には、五月より借用して書写していた「江記」を花山院家に返却したと記されている(「桑華書志」九に、三条家蔵で、「応永卅三年五月上旬、以花山院本書写畢、参議左中将藤原定親」という奥書を持つ「江記」についての記載があり、この写本の存在を確認することができる)。また、中山家の祖である忠親の著作が、当時中山家にはなく、花山院家に所蔵されている例もみられる。定親は応永三十二年九月四日に、「直物抄」を花山院家から借用した。同書奥書には、花山院家に預けられたままになっていた忠親自筆正本を、定親が書写した旨がみえる。ほかに、応永三十三年正月二十五日条では、花頂僧正定助が「中山内大臣殿御作往来」(「貴嶺問答」か)が花山院家にあると語り、定親が未見の旨を答えている。
④御八講記 文永七年
  仮名記。
  (奥書)「後嵯峨院文永宸筆御講似絵触眼、(持明院殿御物也、)仍記竝参仕人々為散後日不審注之、
        延慶元年二月二日 」
⑤御八講記 応安三年 宣方卿記
  奥書なし。
⑥御八講記 応永十二年 成恩寺関白記
  (奥書)「応永十二年宸筆御八講成恩寺関白記、申請一條殿下、正記写留之、
于時延徳二年四月廿八日、終功了、
按察使藤原 」
⑦御八講記 大永四年 和長卿記
  奥書なし。東坊城和長による、大永四年七月二十日に行われた贈皇太后庭田朝子三十三回忌法華八講の記録。最後に「八講儀、禁中例与洞中例不混哉否事」として、「応永卅二年四月日」の後小松仙洞において行われた八講に関する「薩戒記」の記事が引用されている。この八講は、前述のとおり四月二十二日から二十七日にかけて営まれたが、同月の「薩戒記」写本は四月一~二十一日が「四月上」、二十六~二十九日が「四月下」という構成になっており、八講の初日から三日目(五巻日)までの四日分が欠落している。同記目録では、二十二~二十五日にも記事があったはずなので、八講について最も詳しく述べられた部分は失われてしまったことになる。
和長による引用部分の最後には、「已上薩戒記、以自筆之一巻抄出畢、但不校合、可有書失也」と記されている。引用部分は非常に断片的で、内容から年月日を特定することは難しいのだが、既存写本の「四月上」「四月下」には見当たらないものである。したがって和長が、失われた「四月中」にあたる自筆本から抄出を行ったと考えるのが最も合理的であろう。「和長卿記」明応九年九月二十八日条には「当家近代受中山家説」とみえ、また「薩戒記」写本のうち応永三十五年四月の改元記には「大永元年九月盡卅日、抄出之畢、五更臣正二位権大納言菅原和長」の奥書があり、「薩戒記」伝来にかかわる人物のひとりとして、東坊城和長に注目していく必要があろう。
一、 叙位記                  (菊亭シ-十五)一冊
 (奥書)「長享三年四月廿九日書写畢、権中納言(花押)」
前闕、本文四紙と奥書を載せる一紙から成る。「薩戒記」応永三十二年正月五日の叙位に関わる記事の途中から、六日条までを載せる。禁裏文庫に収められ、火災で焼失したとされる中山宣親写本の一部が、何らかの事情で菊亭家に伝わったものと考えられる。既存写本では、正月一~十六日までが抄本のみ、二十~三十日が「正月下」という構成で、とくに六日条は天候以外の記事がないためか、ほとんどの写本がこれをとっていなかった。書写の体裁からも、五日の叙位と七日の白馬節会とのあいだに断絶が感じられ、もともと一~六日条は独立の一巻を成していたのではないかと推定されていた(五日の叙位は、翌日の辰終刻までかかっているので、六日は実質的な活動ができず、記事なしという結果になったのであろう。このような例は応永三十三年の「三月下」でも同様で、除目竟夜の次第を記す長大な二十九日条のあとに、申しわけ程度に三十日条がついている。書写の際には三十日条が落とされることも多く、結果として除目竟夜の別記の体裁をとる写本ができることになる)。この「叙位記」は正月一~六日条を収録した自筆本一巻を書写して、一冊としたものの最後の部分であろう。自筆本は三巻に分けて、正月の記事を記していたと思われる。自筆花押を確認することもできる、宣親写本の貴重な遺例といえよう。

(本郷恵子)

『東京大学史料編纂所報』第40号