大日本史料第六編之四十六

本冊には、南朝長慶天皇の天授元年=北朝後円融天皇の永和元年(一三七五)年末雑載の後半と、翌天授二年=永和二年の正月から六月一四日までを収めた。
 雑載は、寄進・売買・譲与・貸借・年貢の各項を載せた。年貢は、さきの文中三年=応安七年(一三七四)雑載の年貢項(六編之四十二)と同じく地域順の配列を採った。東寺領と南都寺院の所領を中心とし、東寺領では、「東寺百合文書」のほか、「東寺観智院金剛蔵聖教」から洛中宝荘厳院敷地算用状を、新発見の「東寺霊宝蔵中世文書」から山城拝師荘算用状を掲載している。
 翌天授二年=永和二年では、九州の情勢が変化に富む。九州探題今川了俊は、前年八月に肥後水島で少弐冬資を誘殺したのち苦境に立ち、退去しながら体制を整えており、三月一五日には肥前塚崎から同国小城に陣を移している。北九州では、松浦党の動向に関わる史料が目に付き、二月是月条には、波多武が反了俊の立場をとることへの対応に関わる文書を掲げた。無年号のため、研究成果を再検討しながら年次比定を行った。南九州では、水島の一件ののち反了俊の気運が高まり、島津師久の死去(三月二一日条)も大勢に影響を与えなかった。了俊は、事態の打開を図るため、子息今川満範を大隅・薩摩方面に派遣する。満範は六月二日、肥後人吉に下着し、こののち肥後・大隅・薩摩を舞台に、情勢は複雑に変化していく。南九州の情勢を明らかにしようとするとき、典拠となる文書は、ほとんど無年号の書状であり、研究もあまり進展していない。本冊では、慎重な年次比定を行いながら収録史料の確定を行った。なお島津師久死歿条には、署判文書のうちから厳選して、『新編島津氏世録正統系図』引用の文書も含め掲載した。また、五月二五日条などで、「藤野文書」を掲載するにあたり、史料編纂所所蔵島津家本の写本を底本とした。
 六月九日条では、今川了俊が安芸毛利元春の本領安堵を幕府に推挙するという綱文にかけて、元春が記した所領継承などに関わる長文の覚書を掲げた。建武期以来の政治情勢や一族相論の様子を知る貴重な史料である。
 将軍義満の動向はいまだ活発でない。初めて犬追物を張行したこと(四月二八日条)、六条八幡宮に参詣し(五月一二日条)、祇園御霊会を見物したこと(六月一四日条)がみえる程度である。三月是月条には、義満亭における北斗法修法の記事を聖教奥書から掲げた。日常的に継続する、いわゆる長日祈祷の一環の修法と推測される。
 北朝では、光厳天皇の十三回忌にあたり、六月七日に結縁灌頂が催行された。阿闍梨を務めた禅守の記した長文の記録が残り、仁和寺所蔵史料を底本として分載した。また、勅撰集の撰進に向けて百首歌の詠進が促進され(六月三日条など)、青蓮院尊道の詠進に関わる原拠史料を手鑑から掲載した(三月八日条)。このほか、興福寺衆徒の確執に関わって、春日祭にあたり下向した祭使が木津で追い返されるという事件も起こっている(二月二四日条)。
 南朝の事蹟は少ないが、「新葉和歌集」「嘉喜門院集」など和歌集の詞書は大きな手掛かりとなる。三月一一日条に後村上天皇九回忌仏事、四月是月条に内裏百番歌合の綱文を掲げた。
 死歿者では、曼殊院慈昭(三月八日条)、勧修寺寛胤法親王(四月三日条)、山名師義(三月一一日条)などが目立つ。慈昭では、曼殊院所蔵の文書・聖教から伝記史料を掲げ、写真・影写のない文書の一部については、曼殊院に伺って原本を拝見して掲載した。寛胤では、「印璽口伝」を始めとする観智院所蔵史料などから、法流の継承に関わる史料を掲載した。とくに寛胤晩年の観智院賢宝への授法は興味ふかい。この頃、賢宝は寛胤に申請して、安祥寺五大虚空蔵菩薩像に修復を加えており(二月是月条)、伝法と密接に関わる。修復の経緯は、観智院に現存する同像の台座框の銘文に詳しい。
 対外関係では、高麗使の京上をうけて、公武で牒状につき議論がなされている(五月三日条)。また、二月是月条・是春条には、明における絶海中津の活動を掲げた。二月是月条は、絶海らの依頼により夢窓疎石の碑銘が撰された記事であり、碑銘の底本として相国寺慈照院本の「空華日用工夫略集」を用いた。
 なお、本冊は、大日本史料でははじめてTexによる組版を行い、印刷データをXML形式に変換のうえ、フルテキストデータとして活用するべく試行した。
(目次一四頁、本文三八八頁、本体価格七〇〇〇円)
担当者 山家浩樹・高橋典幸

『東京大学史料編纂所報』第40号 p.33*-34