大日本古文書 家わけ第十八 東大寺文書之十九

本冊は、前冊に引き続き、未成巻文書1|12播磨国大部荘関係の文書を中心とする。
 関連文書はいくつかの時期に分けられる。前十八冊にも関連文書があるが、ここでは本冊の文書番号を記す。容赦いただきたい。
 まず比較的初期に属するものが、寛喜・貞永年間頃の預所職・地頭職をめぐる相論関係文書である(一一九二・一一六一・一二〇一・一一六八七の各号)。なおこの段階では、大部荘は東南院の領有するところであった。
 永仁三年以降、荘務権は、東南院から東大寺惣寺に移された。本冊の対象外だが、永仁三年三月一九日(東大寺図書館未成巻文書3|3|93)、同年六月二六日(同3|3|116)、と立て続けに東大寺より現地に下向する使者によって出された起請文が残っているのは、新たな荘園経営の開始によるものであった。後欠により年紀不明の一一六五号はおそらくこの頃のものかと推測される。
 しかし、東大寺惣寺の経営は当初から困難続きであった。まず永仁三年前雑掌である大村繁昌が荘内に乱入(一一五七・一一五四各号)。さらに永仁五年は凶作に見舞われた。荘園現地は年貢免除を要求(一一八三号)。やがて同六年以降は荘内下村・坂部の地頭の違乱あるいは内部抗争で、荘内は混乱。東大寺は違乱停止を幕府に求めている。翌正安元年(永仁七年)も経営は安定しなかった。五月には収納を担当する大部荘下向神人勝賢他が、公文名未進分免除を東大寺側に求める(一一九九号)。さらに六月には、前年永仁六年の収納をめぐり下向神人勝賢他と沙汰人貞玄との間で相論に及ぶ(一二三四号)。
 その後、徳治二年から元応二年頃は、東南院に荘務が返還され、元亨・嘉暦年間頃、荘務権は再び惣寺に戻る。この時期の史料として、まとまっているのが、公文職相論関係である。関連史料については、一二三三号を参照されたい。この相論は東大寺公文所にて争われている。訴陳状と具書の裏花押について、花押主の特定はできなかったが、寺内僧侶と判断される。なお今回、新たに訴陳状と具書の復元を果たしたものがあることを記しておく。
 嘉暦二年から建武元年の時期、荘務は再度東南院に返還された(一一七五・一一九三各号)。そして建武元年に三度惣寺が荘務を握るのであった。このめまぐるしい荘務権の移動の根底には、悪党による荘園現地の混乱があった(一二二八号)。
 南北朝内乱期も荘園経営は依然として困難であった(一二〇〇号)が、やがて「東大寺八幡宮領」として室町殿の保護を獲得し一応の安定化を迎える(一一八〇号)。
 南北朝期・室町期の大部荘経営はやや複雑である。
 この時期の東大寺側経営単位としては、領家方三分二、領家方三分一、公文・恒清名他が確認される(なお地頭方は延暦寺の領有)。応永年間後半には、領家方三分二は惣寺方、領家方三分一と公文・恒清名他は油倉方、という二本立の経営体系が明確に史料上確認される。おそらく南北朝期に遡及すると考えられる。
 このうち惣寺分領家方三分二は、寺内公人による請切代官方式が取られていた(一二〇三号)。一方の油倉方は関係者を現地に「庄主」として派遣する直務経営を実施した(一一六四号・一一九四号)。そのことを示すのが、永享から寛正頃にかけての土地帳簿や収納帳簿の残存である。これらはいずれも油倉関係者の手によるものと推測される。帳簿類は次のようにグループ分けされる。
〔あ群〕領家方内検帳(一二〇八号他)、領家方名寄帳(一二二四号)、〔い群〕一色方内検帳(一二〇九号他)、〔う群〕公文方内検名寄帳(一二二二号他)、公文方・恒清名等年貢納帳(一二一〇号他)、公文方并恒清名・伊王名夏秋地子帳(一二一九号他)、〔え群〕在家銭帳(一二一八号)。
 〔あ群〕は油倉所管の三分一方のみならず、惣寺所管の三分二の分もカバーする領家方全体の帳簿である。名寄帳では名請人納米を三分一、三分二に分けて記述する。油倉方と惣寺方の取り分を明記したものである。〔い群〕も同じく三分一、三分二をカバーする。一二二五号に見える「一納」「二納」はそれぞれ三分一方納め分、三分二方納め分を意味する。〔う群〕は、油倉が専管する公文方・恒清名他にするもので、このうち、内検名寄帳は土地台帳と収納原簿を兼ね備える。年貢納帳は年貢米の収納簿、夏秋地子帳は、地子である大豆の収納簿である。〔え群〕もまた収納簿であるが、領家方・公文方にわたるかに見える。ただし今後の検討が必要である。
 この油倉方の経営と、惣寺方公人請切代官との関係については不明であるが、共に寺内構成員であるから、油倉方が請切代官を支援することは多分にあったと推測される。しかし惣寺方公人請切代官の経営は寛正年間には行き詰まったようで、寛正四年頃それまで惣寺方(年預五師)が負担した燈油は、油倉が替わって調達している(一二一三~一六号)。しかしこの時期以降の関連史料は乏しい。文明一一年幕府よりの安堵を獲得している(一一七三号)が、応仁の乱以降、油倉中心の従来の経営方式は破綻したようである。その後、永正年間以降、赤松氏支族である櫛橋氏を荘園全体の請切代官とし、惣寺に納めさせる方式で立て直されたことが確認される(一二〇五号他)。荘園領主による直務はもはや現実的ではなかったと言えよう。
 大部荘については、『兵庫県史』『小野市史』によって、ほとんどの史料が網羅されている。本冊の収載分も大部分はその範囲内であるが、字句修正・時期確定あるいは分離文書の復元など、同荘の研究に資するところがあると信ずるものである。なお『兵庫県史』『小野市史』未収の大部荘関連文書については、http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/personal/endo/obe/obe%20index.htmに紹介の予定である。
 本冊をもって1─12大部荘は完了するが、既刊分の大部荘関連文書で過誤を犯していたので、この場を借りて訂正する。
○第十七冊
第八七六号六五頁 (文書名)×播磨守護〈山名持豐〉奉行人連署奉書→○播磨守護〈赤松則尚〉奉行人連署奉書 (九行目傍注)×山名持豐→○赤松則尚)
○第十八冊
第一〇九六号一九六頁 (文書名)×長鹽宗永書状→○摂津守護代長鹽宗永書状、(六行目傍注)×山名教豐→○細川勝元
第一一〇六号二一三頁 (文書名)×長鹽宗永書状→○摂津守護代長鹽宗永書状、(九行目傍注)×山名教豐→○細川勝元
第一一〇八号(一)二一六頁四行目 ×細引→○網引
第一一〇八号(七)二二一頁九行目 ×細引→○網引
第一一四二号二六七頁七行目 ×通局→○通局〔屈〕
 本冊も欠損文書の復元に努めた。それに際しては、国立歴史民俗博物館の東大寺文書目録データベース、本所の古文書目録データベースを大いに活用した点を付記する。
(例言四頁、目次八頁、本文三七七頁、花押一覧二葉、価七、八〇〇円)
主担当者 遠藤基郎

『東京大学史料編纂所報』第40号 p.40*-42