大日本古文書 家わけ第十七 大徳寺文書別集真珠庵文書之六

本冊は大徳寺文書別集 真珠庵文書之六として、己箱の文書を七五三号より八五九号までおさめ、さらに壬箱の文書を八六〇号より九〇七号までおさめた。本冊の文書も前冊に引き続き興味深いものが多く、その時代も平安時代より江戸時代に及んでいる。
 まず特筆すべきなのは、若狭国名田庄関係の文書であろう。とくに第八一六号におさめた若狭国名田郷内御領立券注進状は、袖に藤原隆信の唯一の花押を存し、八一九号文書とあわせて、名田庄の形成を具体的に追跡することが可能となる。鎌倉南北朝期の文書と系図も名田庄の経営や伝領について重要な事実を伝えている。さらに室町時代後期の名田庄の史料として重要なのは、八三八号の武田信豊書状を初めとする若狭武田氏の関係文書や七五四・七五五号の粟屋氏関係の文書であろう。大徳寺との関係では、それらの文書の中に佐々木六角氏の奉者、進藤貞治や慈光院寿文が登場することも興味深い。なお、名田庄の研究にとって重要なこれらの文書は、古くは甲箱所納の本坊文書との深い関係をもつものであったことは、本坊文書四四九号文書(『大日本古文書 大徳寺文書』第一巻)が本冊八三八号の武田信豊書状と一具に包紙におさめられていたことでも了解できる。
 また己箱の文書のうちで、とくにふれておきたいのは、第八五三号文書、播磨三方山材木文書包紙である。この包紙のウハ書が徹翁義亨の筆にかかるが(これについては按文で指摘しておいた)、そのウチ書は、本坊文書一二二号文書の大徳寺諸庄園文書目録の主筆跡と同一である。そして、この大徳寺諸庄園文書目録には「播磨国三方山才木銭預状並借書陸拾参通」という記載がある。つまり、この目録の作成時に、右の「陸拾参通」は右の包紙によって包まれ、その包紙の面に、義亨がウハ書を加えたということになるだろう。大徳寺諸庄園文書目録は大徳寺の所領形成を検討する際の基本文書であるので、関係の筆跡について少しくふれることとした。なお、このような己箱文書と大徳寺本坊文書の関係については、ほかにも按文で指摘した部分があるので、それを参照願いたい。
 これに対して、壬箱には、一休宗順・桐岳紹鳳・済岳紹派などの文書、また応仁文明の乱で焼失した大徳寺方丈の再建に関わる冊子類を初めとして、真珠庵の寺史に関係する重要な文書が収められている。詳細はすべて本冊について確認されたいが、ここでは八六〇号から八六二号にかかげた曝涼目録のもつ意味に注意を喚起しておきたい。これらは、大徳寺における室町後期以降、江戸時代にいたる重書の文書管理が、七夕曝涼を中心として組織されていた様子を推測させるのである。
  (例言一頁、目次一七頁、本文二八五頁、花押一覧八頁、印章一覧一頁、本体価格六,六〇〇円 )
主担当者 保立道久

『東京大学史料編纂所報』第40号 p.40