大日本古記録 斎藤月岑日記五

本冊には日記原本第一六冊から第一八冊までの三年分を収めた。年代は嘉永三年(一八五〇)・同四年・安政元年(一八五四)で、月岑四七歳から五一歳に当たる。なお嘉永五年と六年は原本欠である。
 この三年間、月岑は雉子町ほか五町の名主職をつとめながら、引き続き幕府賄方からは青物役所詰に任じられ、また町奉行所からは人別・米・世話・市中諸色の各掛を仰せつかっていた。さらに安政元年には再渡来したアメリカ使節の応接に関連して非常掛にも任じられている。
 月岑身辺の大きな出来事としては、嘉永三年の養子亀之丞病死と安政元年の妻おれん病死がある。
 養子亀之丞は月岑の姉(小網丁あね)と小網町名主普勝伊兵衛の間の子で、『日記』では天保元年二月一四日に「久次郎、近江やに菓子・手遊もらう」と初めて登場し、同年一〇月一六日に「久次郎小網丁より養子ニ貰受る」と月岑養子になっている。享年から逆算すれば、当時二歳(数え年)であった。天保一四年からは名主見習をつとめさせており、月岑としてはいずれ家督を譲るつもりであったと考えられるが、それも叶わぬこととなった。嘉永三年は正月より体調不良であったが、種々の療治にもかかわらず、七月二七日病死した。「未刻、惣領亀之丞病死、廿二才、幸道、福良、幼名久二郎、戒号泥?(ナイヲンと振り仮名あり)院幸道居士、親類其外支配悔ニ大勢来る」とある。なお、亀之丞病中の嘉永三年三月九日に、月岑父斎藤幸孝の三十三回忌が法善寺で行われている。
 妻おれんは、『日記』が残る天保元年にはすでに月岑と結婚していた。享年からの逆算で生年は文化八年(一八一一)となるので、結婚は天保元年をさかのぼること遠くない時期と考えられる。また、しばしば往来記事が見えていることから、実家は付木店の「よしのや」と推測される。乳幼児のうちに亡くなった者も含めると、月岑との間には少なくとも四男五女がいた模様である(『日記』欠年などのため詳細不明な場合がある)。安政元年正月一七日以降「おれん不快」の記事が見られるようになり、二月下旬から寝込むようになったが、四月末に容態が急に悪くなったようで、「おれん病気甚募る」(四月二八日)・「おれん差重り驚く」(五月一日)といった記事の後、五月二日「今朝六半時、市左衛門妻れん病死、四十四才也」と続いている。法名実誠院妙応大姉、五月五日法善寺に葬り、二本榎高野寺へも分骨した。四十九日の後、月岑は法善寺へ石碑を刻むことを依頼しているが、碑の具体的な内容は分からない。
 町名主代替わりの様子がやや詳しく分かる事例として、嘉永三年から同四年にかけての東湊町名主遠藤家の例を見ることができる。同家は月岑姉(湊町あね)の嫁ぎ先であるが、嘉永二年閏四月に当主七兵衛(月岑姉の夫)が病死した後、当主不在であった。結局、浅草田原町二丁目名主荒川の紹介により、田原町若松屋から婿養子を迎えることになり、嘉永四年五月樽にて家督許可されている。町名主の代替わり事例は、安政元年にも小柳町名主岡村家、芝中門前名主大久保家の例を見ることができる。
 嘉永四年のいわゆる株仲間再興令関係では、同年三月九日条に「南御番所御呼出、御白洲ニ而仲間組合再興被仰渡、佐柄木氏・小藤氏も出勤なり、直ニ萬丁柏木へ寄合、八時かへる」と記されている。この後三月一三日から一八日にかけて、月岑は相役と諸商人名前書上作成にあたっている。また、同年一二月三日には、「諸納人御仕法替伺書」を南町奉行所へ出し、町年寄喜多村へも出頭している。
 本冊での新たな特徴として、異国船・異国人関係の記事が増えていることがある。安政元年二月三日には「長持壱棹千住とねり(舎人)や次兵衛殿へ預る」との記事があり、一市民としてそれなりの緊張感を持っていた様子をうかがうことができる。この時期の日記には、外国艦隊の所在位置(伝聞情報)をしばしば記載している。
 「武江年表」の嘉永六年部分にある外国事情関係書籍の一覧から、月岑が外国事情に高い関心を持っていたことは明らかであるが、町名主としての特有の事情もあった。
 安政元年正月一五日に「今日より異国船一条御用始る」と記されており、この後、南北町奉行所への「御用伺」記事が頻出する。これはアメリカ人に供給する物資調達のため、掛名主が交代で町奉行所へ出て、その指示を伺うものであった。『日記』から分かる範囲では、人員は南北それぞれ九ないし一〇名で、しかも南北両方から御用を命じられたのは月岑一人であった。これは、長年青物役所詰であった経歴が考慮されたものであろう。物資は青物・玉子・雑貨などが中心であったが、変わった例として、鈴木越後の菓子三百人前(二月六日)、傘(二月一八日)や、「吉原江戸丁松葉や千加蔵抱やどりき・都の出る」との記事(二月一七日)もある。三月中にこの御用伺体制はいったん終了するが、その後もアメリカ艦隊の下田滞留・再入港、ロシア艦隊の下田入港などがあったため、断続的に「青物御用」を命じられている。
 大きな火災としては、嘉永三年二月麹町火事と安政元年一二月二八日の多町火事(日本橋まで延焼)がある。前者に関しては、一〇日に焼け跡を見に行った際のことが、次のように記されている。「虎の門へ参る、當月五日京極様類焼、金比羅権現社ハ土蔵故残り仮庇出来、参詣をゆるさる、あたご山裏之方へ行見る、青松寺墓所より少しの厓有り、歩行自在也しが、家財を持て逃し輩焼死たりと見ゆ」。後者の火災では月岑宅も類焼し、家内一同本郷の富岡佐太郎方へ身を寄せている。
 なお、日記表紙裏にその年の主要事項を書くことは弘化四年に始まり、徐々に詳細になって安政元年頃にはほぼ形式が整うので、本冊巻頭図版には安政元年索引(原本には表題無し)を収めた。
 挿絵としては、竹の厨子(嘉永三年正月)、両国縫い物細工の大黒天見せ物(嘉永四年六月)、神田明神祭礼雉子町白雉子の山車(同年九月)、両国虎の見せ物(同年一〇月。「虎にあらす猫の一種也」と記述あり)、中ノ郷料理屋在五庵(安政元年一二月)などがある。
(口絵一枚、例言一頁、目次一頁、本文二四五頁、本体価格八四〇〇円)
担当者 鶴田啓・松本良太

『東京大学史料編纂所報』第40号 p.35*-37