大日本維新史料 類纂之部 井伊家史料二十四

本巻には、安政六年十二月から万延元年正月まで(安政六年是年・安政六年補遺を含む)の史料と、幕政関係史料(安政六年十一月~万延元年正月)・探索関係史料(安政六年十二月~万延元年正月)・西国探索関係史料(安政六年十二月~万延元年正月)・松代藩政争関係史料(安政六年十一月~万延元年二月)を収録した。また、米国大統領宛の将軍徳川家茂書翰案写(六九号付属三)を口絵図版として掲載した。
安政六年十二月、彦根藩京都留守居後閑義利は同藩士長野義言に、御所内で関白九条尚忠の気受けが宜しくないとの風聞を伝え(二号)、長年放置されていた大津尾花川・京都加茂川間掘割工事の着工を井伊家出入の帯屋源之助が出願した一件についても報じている(四・五号)。
安政六年補遺として収録した長野書状案の断簡二点は、孝明天皇と青蓮院宮入道尊融親王の行状に関する内容である。恐らく明治以降、皇室を憚り井伊家側で切断されたものであろう(一三号)。
翌万延元年正月になると、九条関白と同家家士島田龍章から添地拝領に対する御礼が大老井伊直弼に伝えられ、同時に、長崎直貿易に関する風聞や兵庫・出雲開港の件につき叡心穏やかならず、場合によっては大老の勅召があるかも知れないとのことや、議奏の中山忠能・徳大寺公純は正月中に御役御免とのことなど、朝廷内の諸情勢が報知されている(一四・一五号)。
大坂町人に対する江戸城本丸普請の御用金賦課については、大坂城代松平信義が、予め下達予定日を直弼に報じている(一六号)。実際には十七日に上納が命ぜられた(四五号)。
伊勢神宮守衛厳備の勅命が武家伝奏より通達された一件では、小浜藩士三浦吉信がこれを長野に報じ、津藩の京都援兵を免ずる代わりに神宮沿岸防禦を命じてはどうかとの京都所司代酒井忠義の私見を伝えている(一七号)。
安政六年末に発令された、京都の糸・呉服等取扱業者は当分の間呉服師後藤縫殿助の差配を受くべしとの幕達に対しては、所司代酒井が井伊大老宛に請書を提出している(二四号)。本件は所司代への懸合もなく急遽決定されたため、直弼はとくに直書(二十三巻二六号参看)をもって酒井に事情を説明していた。それ故に酒井は、前述の請書と同日付で直弼の直書に対する返書を差出し(二五号)、三浦からも長野宛に承知の旨が伝えられたのである(三一号)。
さて、徳大寺・中山両卿の議奏退役は十五日過ぎの見込みとなり、朝廷は跡役の一人として正親町三条実愛の任命を所司代に申入れてきた。議奏の任免は所司代限りにて返答する振合なので、酒井は了承の旨を内答し、これを長野経由で直弼に報告した(三〇号)。これに対して直弼は、正親町三条の議奏就任には別段意見がない旨を長野に返答している(四〇号)。
ところが後日、両卿退役は延引となり(三九号)、さらに叡慮によって本件は松の内過ぎまで内密とされる。その背景には孝明天皇の翻意があった。天皇は将軍の直命による退役を希望するが、酒井はあくまでも天皇の御内沙汰による朝廷内での決着が望ましいと考えていた。もし台命による公家処罰という事態となれば、尊号事件に際しての議奏中山愛親の断罪が先例となる訳だが、当時所司代側には記録がなく、さらに伝奏・議奏は朝廷が任免する役職であり幕府が直接罷免できないため、新規に手続きを検討する必要があるとして、酒井は直弼の意向を伺っている(五〇号)。
その他、幕政関係史料としては、万延遣米使節が持参した米国大統領宛将軍書翰の起草過程の一端を示す史料(六九号及び同号付属史料一~五、なお、一八号の長野書状も参看のこと)などを収録した。また、探索関係史料及び西国探索関係史料として、本丸普請・水戸藩関係の風聞、西陣や遊所を中心とするの景況や大坂・長崎方面の風聞等を探索した内容の届書を収めた。
なお、本巻では、松代藩政争関係史料として、同藩士らが井伊家側に提出した書状・願書等を一括して収録した。
(目次一八頁、本文三〇四頁、口絵図版一頁、本体価格一〇、一〇〇円)
担当者 横山伊徳・杉本史子・箱石 大

『東京大学史料編纂所報』第40号 p.37*-38