大日本史料第七編之二十

本冊には、称光天皇の応永二十一年四月から、同年十二月八日に至る期間の史料を収めている。
この時代、守護たちは地方領主層を被官化することなどによって、その領国支配を進めていた。このことは、例えば守護の国内武士に対する所領の充行、安堵という形をとってあらわれるのであるが、本冊にもこれを示す史料がいくつか収められている。すなわち、備後守護山名時熙が同国地荘内奈目良分を山内熙通に充行った記事(四月二十二日条)、駿河守護今川範政が同国伊達政宗に対してその譲得せる入江荘内の地を安堵せしめた記事(閏七月二十四日条)、加賀守護富樫満成が、富樫伯耆入道をして同国千木保内府南御供田地頭職を安堵せしめた記事(十月七日条)等々。なお、加賀前守護斯波満種が足利義持の怒に触れて解任された後、義持側近の富樫満成が、同満春とともに同国守護に補されたことが、六月八日の条に見える。
 さて、応永二十一年は、足利義満の七周忌の年にあたっているため、本冊ではその七周忌追薦仏事に関する記事がかなりの分量を占めている。すなわち、幕府では、忌日を繰り上げて四月十四日に等持寺において追薦のための法華八講を、また院では、正忌である五月六日に仙洞御所において法華懺法講をそれぞれ修しており、そのほか禅院をはじめ天台・真言の諸寺においても仏事供養を修しているが、これらに関する史料が、四月十四日および五月六日の条にそれぞれ掲げられている。
 また、七月十三日は、義満の生母紀良子の一周忌にあたり、義持が祖母のために一周忌仏事を等持院においておこなっている記事が同日条に収められている。
 つぎに、この年十二月十九日には即位の大礼がおこなわれているので、これに関する記事が本冊に散見される。例えば、八月是月の条に蔵人所出納安倍親成が即位雑事を注進したこと、十二月五日の条に即位大礼のために称光天皇が仙洞御所に方違行幸をおこなったことが見えるほか、即位段銭に関する記事がいくつか見えている。なお、即位大礼のことは次冊に収録する。
 本冊において注目すべき記事の一つは、十一月二十二日条に収めた、三宝院満済が今小路基冬の三十三周忌仏事を修している記事である。従来、満済は、『尊卑分脈』等の系図によって基冬の孫、師冬の子と考えられてきたのであるが、十一月二十二日条の典拠とした『醍醐寺文書』所収の満済の仏事法語によって、基冬が満済の実父であること、『満済准后日記』に頻出する「後浄覚寺殿」が基冬の法号であることを知ることができるのである。
 ところで、本冊においては、前侍所頭人美濃守護左京大夫土岐頼益(四月四日条)、前天竜寺住持大縁中勝(六月十日条)、常陸小田孝朝(六月十六日条)、式部権大輔従三位高辻久長(七月七日条)、従三位薄以基(七月是月条)、権僧正南松院房助(閏七月十八日条)、幕府奉行人前大和守飯尾浄称(八月十五日条)、前豊後泉福寺住持天真融適(八月二十日条)、前鎌倉府執事上総・武蔵守護上杉朝宗(八月二十五日条)、権中納言従三位甘露寺清長(八月二十九日条)、上野泉竜寺・武蔵円福寺・越後関興庵等開山白崖宝生(九月七日条)、権中納言従二位中御門宣俊(九月十三日条)、前興福寺別当僧正一乗院良兼(九月二十三日条)、前南禅寺住持大業徳基(十月十四日条)の事蹟を集録してあるが、正三位坊門信藤は薨逝の日が詳かでないため、また木幡雅秋は薨逝・出家の日がともに詳かでないため、いずれもその事蹟を、坊門信藤が出家した四月五日の条に便宜合叙した。
 なお、群馬県伊勢崎市泉竜寺所蔵の吉山明兆画、厳中周噩賛『白崖宝生画像』の原色図版を九月七日条の白崖宝生の伝記史料の間に挿入した。原色図版は第七編として初めての試みである。
 また、四月十七日の条には、細川満元邸において讃岐頓証寺法楽和歌会が催された記事、十二月五日の条には、足利義持の執奏によって後小松上皇が頓証寺に額草および法楽和歌を賜い、細川満元等がこれに対して同寺法楽和歌会を催した記事を載せており、上皇の宸筆になる頓証寺の額の写真を十二月五日の条に掲げてある。

担当者 玉村竹二・今枝愛真・新田英治・安田寿子 
(目次一七頁、本文四七〇頁)

『東京大学史料編纂所報』第4号 p.77*-78