大日本古記録「言経卿記六」

本冊は、文禄三年、同四年の二箇年分を収めている。言経は、まだ勅勘の身で、彼の室が興正寺佐超室と姉妹であったことから、同寺の庇護を蒙り、主として医薬業に依って渡世し、あわせて豊臣秀次及び徳川家康からの扶持米を受けていたことはこれまでと変りない。
 言経の日記には、人の来往、物品の贈答、医薬の投与等は貴賎を問わず記録されているが、その記事は概して簡略で、秀次失脚事件でさえも、詳細な事情を知ることが出来ず、隔靴掻痒の思いがする。しかし、めぼしい記録の少ないこの時期にあって、徳川家康と交渉のあった筆者の日記は、家康の交遊関係、行動などを知る上に貴重な存在であると思われる。相国寺、知恩院、建仁寺、東福寺などでの宴遊、近衛、柳原、勧修寺等の廷臣との交り、前田利家、蒲生氏郷、伊達政宗、細川幽斎等との往来などが、この二年の間に頻繁に行われているのである。また、政商として近年学界で脚光をあびてきた呉服師亀屋栄任とみられる人物が、今立売に住み、家康の宴席にしばしばあらわれているのも興味ある事柄である。
 さて、めぼしい事件としては、秀次及び内衆の切腹(三一四ページ)、近衛信輔の薩摩左遷(五四ページ)、蒲生氏郷の死と遺子秀行に対する家康の後見(二二四ページ)などがある。
 文化面の記事はかなり多い。公卿補任の借用、筆写の記事(一二八、一三九ページ)は、現存する山科本公卿補任の書写のことである(但し、尊経閣文庫現蔵の後土御門天皇代公卿補任の奥書が文禄二年に作るのは誤記であろう)。また秀次が謡本百番に、言経をはじめ、吉田兼見、五山衆(南禅寺玄圃霊三、相国寺有節周保、西笑承兌、清叔寿泉、天竜寺三章令彰、建仁寺英甫永雄、古澗慈稽、東福寺惟杏永哲、月渓聖澄)、延暦寺正覚院豪盛、知恩寺長老奉誉聖伝、日蓮党、里村紹巴、同昌叱、鳥養道〓(車屋本の版行者)、同新蔵等を催して注を付けさせたことが、比較的詳細に記されている(二四五ページ以下)。この仕事は、約十日間で一応終るが、その後も、清書、訂正、追加が、秀次の死の直前まで行われた。これが、古活字版や写本として現在伝わっている謡抄である。秀次の死後も、鳥養道〓、新蔵父子と言経の間では謡本の貸借が続けられ、質疑応答が繰返されている。また新作として、明智討、柴田討、北条の名がみられるのも(一五一ページ)、時代柄をよく表わしている。
 このほか言経が、依頼に応じて、系図を書写、作製した記事の多いのも本冊の特色である。殊に、家康が系図に関心深く、竹内系図、織田系図などの書写を頼み、披見したのち、徳川家の系図の新写を依頼している(二六二、三五五ページ)ことは注目される。
社会面では、朝鮮出兵に関聯して商人が朝鮮に出かけ活躍していた事実(二五、四八ページ)、掏摸の釜茹(一三四ページ)、八瀬の釜風呂養生(二五二ページ)などが記されている。
(例言一頁、目次一頁、本文四一六頁、挿入図版一葉、岩波書店発行)
担当者 斎木一馬、百瀬今朝雄、益田宗

『東京大学史料編纂所報』第4号 p.81*-82