大日本維新史料類纂之部「井伊家史料六」

本巻は、安政五年三月より五月に至る、三箇月の史料を収める。
 京都入説の主命を受けて入京中の長野主膳は、三月四日京都を発して帰府の途につき、ついで五月九日再度入京、同月晦日江戸に帰着する。また日米修好通商条約調印の勅許を得るために上洛中の老中堀田正睦は、その目的を達することができず、四月五日むなしく京都を離れる。堀田閣老の江戸帰着後わずか三日、同月二十三日に井伊直弼が大老職に就任する。すなわち、政局の上では将軍継嗣・条約調印という内外にわたる重要問題をひかえ、緊迫した情勢にあったから、史料の内容も機密にわたるものが多い。
 三月中では、京都入説中の長野主膳に宛てた直弼の書状(第七号)、主膳が京情を報じた宇津木六之丞宛書状(第二・三・一〇号)および宇津木の返書(第九号)、さらに主膳の帰府に託した関白九条尚忠の直弼宛書状(第一号)があり、九条家家士島田左近と長野との間に交わされた書状(第四・一三・二一号)などがある。また朝議および堀田閣老の動静などを伝える京都風聞書(第一七−二〇号)もある。ことに岡本半介に宛てた某書状(第二三・二四号)は、長野と立場を異にする者の書状であり、岡本の直弼宛上書(第二六号)は、某書状と関連があるものと考えられ、書中、水戸老侯徳川斉昭と提携すべきことを進言するなど、注目すべき内容を持っている。
 四月に入って、鹿児島藩主島津斉彬の福井藩主松平慶永宛書状とその別紙二通(第三二号)は、将軍継嗣問題に触れたもの、在藩家老の三浦内膳宛用状の別紙二(第三五号)は、堀田閣老滞京中の廷臣の動静を報じたもの、岡本半介の宇津木六之丞宛書状(第三六号)は、長野の運動に批判的態度をとっている点が注目され、長野の島田左近宛、島田の長野宛書状(第三七・三八・四六号)は、それぞれその後の江戸と京都の情勢を報じ、長野の直弼宛上書(第四〇号)は、岡本半介の斉昭提携説に反論しており、また上書案(第四四号)でも、斉昭に対する警戒の意を強めている。直弼の大老職就任に関する史料には、第四七・四九・五二−五四号があり、なお直弼の大老職就任の誓詞(第四九号)は、巻頭に図版として載せた。年代は溯るが、直弼の将軍代替の誓詞も参考として収めた。
 五月に入れば、長野主膳の入京にともない、直弼の長野宛書状(第六一号)では、将軍継嗣が紀州慶福に決定したこと、期限に至らば条約に調印すべきことなど、機密に属する内容が含まれており、これに答える長野の上書(第七五・七八・八四号、第八九号別紙)にも、注目すべき内容を持っている。情勢の切迫するにつれて、宇津木六之丞と長野との往復書状(第六四・六九・七三・七六・七九・八六・九〇・九一・一〇四号)、あるいは高田新右衛門の長野宛書状(第六三・七四号)などは、いずれも機密の内容に触れており、島田左近の長野宛書状・口上書・趣意書(第九二-九四・九七・九九・一〇二号)も、九条関白の内意を受けた島田の書状類である。直弼の徒頭薬師寺元真宛用状(第一〇〇号)、薬師寺の直弼宛上申書(第一〇一号)により、また勘定奉行石谷穆清の宇津木宛書状(第七一・八○・八一号)により、薬師寺・石谷がともに直弼派に属する人物であることが証され、興味深い史料といえよう。
 これを要するに、内外情勢の緊迫化にともない、全般にわたって、史料の上でも重要な内容を持つものがすこぶる多い。
(目次一六頁、本文三七五頁)
担当者 吉田常吉・山口啓二・小野正雄・河内八郎

『東京大学史料編纂所報』第4号 p.86**-87