東京大学史料編纂所

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刊行物紹介

大日本史料 第二編之二十八

 本冊には、後一条天皇の長元元年(一〇二八)十一月から、同二年九月までの史料が収めてある。
この間の主な事柄としては、前冊と同様に入道前太政大臣藤原道長薨去後の諸事、中宮藤原威子の御産(二年二月一日の第二条、一三七頁以下)、大宰大弐藤原惟憲の召還(五月四日の条、二二二頁以下)と権中納言兼大宰権帥源道方の赴任(八月十七日の条、三三五頁以下)、関白左大臣藤原頼通の上表(九月十六日の条、三五九頁以下)などがあげられる。道長のための仏事としては、法成寺に於ける周忌法会(元年十一月四日の第二条、三頁以下)・正日法会(十二月四日の条、四二頁以下)・高陽院に於ける法華八講(二年閏二月十三日の第一条、一七五頁以下)等があり、上東門院藤原彰子を始め中宮威子・頼通等は正日法会と同日に除服し、さらに中宮威子と頼通は二年正月十七日には心喪の鈍色も除いている(同日の第三条、一二三頁)。また、元年十二月二十二日には、是より先、法成寺に寄進された道長の遺物及び遺領の残余が上東門院彰子以下に頒たれている(同日の第二条、六五頁以下)。
 後一条天皇に関する事柄として、御悩(十二月二十九日の条、七〇頁)と皇女馨子の誕生(前掲)があげられる。中宮威子は予て御産のため、中納言藤原兼隆の大炊御門第にあったが、この間、御産のための雑具を調えられ(十一月二十六日の条、三七頁)、次いで御産の間の雑事が定められるとともに(十二月二十二日の第一条、六五頁)、御産平安のための興福寺及び春日社に於ける御祈り(同月十一日の第二条、五三頁以下)・本願薬師経御読経(同月十八日の条、六二頁以下)などが行われ、皇女馨子の誕生(前掲)に至っている。この後、中宮威子は馨子を伴って内裏に参入し(二月二十三日の第二条、一五三頁以下)、内裏飛香舎に於いて馨子の五十日の儀(閏二月二十二日の第二条、一八一頁以下)、次いで百日の儀(四月十四日の条、二一一頁以下)が行われ、四月十六日には馨子を内親王と為す宣旨が下されている(同日の条、二一四頁)。
 東宮敦良親王に関する事柄として、御悩(五月十日の条、二二四頁)と禎子内親王の御懐妊(六月七日の第二条、二三五頁)があげられる。是より先、禎子内親王は枇杷殿の焼亡により法成寺に遷御(十一月九日の第二条、一四頁以下)されていたが、六月七日には御産により権中納言源道方の四条坊門高倉第に移られている(前掲)。なお、九月二十八日には同内親王御所に盗が入り、雑物ならびに丁子五百両の被害に遭っている(同日の第三条、三七七頁)。
 次に関白左大臣頼通の行動についてみると、道長の正日法会(前掲)の後の元年十二月六日、除服の後に始めて吉書を覧じ(同日の条、四八頁)、同月十三日には道長のための法華八講の雑事を定めている(同日の第二条、五五頁)。二年正月二日の同家臨時客は停められたが(同日の条、一一三頁)、同月十七日には心喪の鈍色を除き(前掲)、二月四日には皇女馨子三夜の儀に奉仕し(同日の第二条、一四〇頁以下)、閏二月十三日には高陽院に於いて道長の為の法華八講を修している(前掲)。その後、東山に遊覧し(三月二日の第一条、一八七頁)、高陽院に作文を行い(同月二十三日の第二条、一九八頁以下)、大中臣輔親の六条宅、次いで白河第に渡り(四月二日の条、二〇六頁以下)、同第に於いて競馬を観るなどし(五月二十八日の条、二三四頁)、七月十四日には高陽院に仁王講を(同日の条、二八二頁)、次いで同月十八日には大井川に祓いを行い(同日の第二条、二八六頁以下)、八月四日には高陽院に法華三十講を行ったが(同日の条、二九九頁以下)、九月十二日より重病となり(同日の条、三五五頁以下)、十六日には初度の上表を行っている。頼通の病により非常赦、次いで修法が行われるなどしたが、頼通の病は重く、同月二十五日には第二度の上表が行われたが、同月二十八日に至り漸く病は平癒している(前掲)。
 この他、太政大臣藤原公季に関する事柄として、その病と太政大臣辞任についての風聞があり(九月十四日の第二条、三五七頁以下)、右大臣藤原実資に関する事柄として、その小女と藤原兼頼との婚儀(同月二十日の条、三六四頁以下)をあげることが出来る。また、他に注目すべき事柄として、宋商客周文裔の申請に関する記事(元年十一月二十三日の条、三一頁以下・十二月十五日の第一条、五九頁以下・二年四月二十五日の条、二一九頁以下等)、平忠常の乱に関する記事(二月五日の第二条、一四一頁以下・六月十三日の条、二三六頁等)、三合攘災に関する記事(閏二月五日の第二条、一六一頁以下・同月二十九日の第一条、一八三頁以下・三月十八日の条、一九二頁以下・七月二十一日の条、二八七頁以下等)、平季基の大隅国府焼き討ちに関する記事(八月七日の第一条、三〇三頁以下)などがある。また二年八月以降、京中に福来病が流行し、脩子内親王を始め公卿廷臣の多くがこの病を患っている(是秋の条、三七八頁以下)。
 本冊に於いて、その事蹟を集録した者は、甲斐守藤原公業(元年々末雑載、社会の条、八二頁以下)・源則理母(同条、九〇頁以下)・権少僧都経理(閏二月九日の第一条、一六四頁以下)・法橋覚空(同日の第二条、一六七頁以下)・律師観真(三月十九日の条、一九三頁以下)・式部権大輔兼大学頭大江通直(五月二十日の第二条、二二七頁以下)・前権中納言藤原朝経(七月四日の第二条、二四七頁以下)・権僧正心誉(八月十二日の条、三一〇頁以下)などである。
(目次二一頁、本文三八〇頁、原色挿入図版一葉、価七七〇〇円)
担当者 加藤友康・厚谷和雄


『東京大学史料編纂所報』第39号p.38-39