大日本古記録 後法成寺関白記二

本冊には原本の現存する永正十年(一五一三)・十三年・十四年・十六年・十七年の五ヵ年分の本文とその紙背文書を収めた。記主近衛尚通の四十二歳から四十九歳に該当する。永正十一年・十二年・十五年分は早くから失われたらしく、近衛家熙筆かと推定される写本(陽明文庫蔵)にもこの年次は闕けている。
永正十年十月、尚通は前年より希望していた関白再任を果たした。十三年年末の太政大臣辞退、十六年十月の准三宮宣下に関しても日記中に記事がある。
禁中では十四年二月と十六年二月、廷臣の申沙汰によって酒饌を献上し、また天皇よりその返礼が行われた記事が見えるが、尚通は天盃を亡父政家の作法によって頂戴したと記している。また、こうした際に尚通が出した礼状や長橋局から叡感の旨を伝えた奉書の文言が本文に収められているが、礼状の書きさしは紙背文書にも遺されている。
家中では後に大覚寺義俊(禅意)となる子息の誕生(永正十年五月八日条)、また後に久我晴通となる子息の誕生(同十六年六月二十九日条)があり、室維子とその縁につながる人々の動静も詳しい。なお将軍足利義尹(十年十一月義稙と改名)は、尚通息女の宝鏡寺入室について、義尹自身の猶子としてこれを実現し、尚通の妹大祥院尊永も猶子とし、またすでに猶子となっていた息明岳瑞昭を慈照寺の蔵主に昇せるなど、折に触れて近衛家との密接なつながりを確認している。
義尹は十年二月、大内義興や細川高国と不和となり、三月には京都を去り、近江に赴くが、五月には彼らの慫慂に応じて帰洛する。
細川高国・高基・尹賢らと細川澄元との対立が表面化し、十六年十一月には高国らが出陣するが、尚通は高国・尹賢らに戦勝祈念の巻数を贈っている。しかし十七年二月には攝津越水城陥落の報が伝えられ、また逆に澄元・三好之長らの退散の噂が流れたが、同月十七日敗退して帰洛した高国が、将軍警護の申し出を拒否され近江坂本に奔る事態に立至る。
三月二十九日、尚通は三好之長に太刀を贈って高国没後の事態に備えるが、結局五月には高国らが勝利を治め、同月十一日三好之長父子の切腹に及ぶ。三好らは一時曇花院に庇護を求め、このため曇花院と義稙は一旦義絶するが、翌月和解に至る。
連歌開催が頻繁に行われ、詠歌大概注を書写して畠山順光に贈り、連歌師玄清に古今の切紙伝授を行い、細川尹賢と細川高基の為に古今集を講釈し、大内義興に百人一首を書き贈るなど、相変わらず文芸活動の記事も豊富で、また多一・本一・延一など検校がしばしば来訪し、彼らに平曲を語らせている。
毎年十月には北小路俊泰等が家領のある越前に赴き、近江信楽庄からは代官多羅尾が茶や樽酒を献上するなど、家領支配に関わる記事も見られる。なお十六年十月には、近年一円押領されていた家領播磨坂越庄より年貢が到来している。
 尚通の異母弟一乗院良誉は十三年四月大僧正となるが、同年六月、興福寺僧の中に一乗院に礫を打つ者があり、さっそく足利義稙の成敗を求めて、十月には犯人を寺家より退出せしめ、十一月には彼らが筒井の足軽らと共謀して違乱に及ぶが、翌年五月には良誉より彼らを赦免し、静謐を得るなど南都の記事も豊富である。なお、十七年八月、息覚誉がその師良誉より折檻を受けたとして一乗院を去ると、寺内各層が仲介して尚通・覚誉と良誉の和解が成立するなど、興味深い記事も見られる。
 本冊の編纂について種々陽明文庫長名和修氏の懇切なご協力ご教示に預かった。
(例言一頁、目次一頁、本文二三一頁、紙背文書例言一頁、紙背文書六四頁、巻頭図版二頁、本体価格一二,〇〇〇円 岩波書店発行)
担当者 田中博美

『東京大学史料編纂所報』第39号 p.46*-47