大日本近世史料 細川家史料 十九

本冊には、細川忠利文書の内、寛永十二年分の諸方宛書状として寛永十二年「公儀方御書案文」(整理番号十ー廿三ー四)所収の二百四十三通を収めた。
 宛先は、前冊までと同様に多岐(幕閣・大名・大名家臣・旗本・公家・僧侶等々)に亘る。
 元旦を熊本で迎えた忠利の寛永十二年は、在江戸の六丸(光尚)の疱瘡に将軍家光から上使や医師を派遣されたことに対し、御礼言上取り次ぎを依頼することから始まった(二七九八号文書等)。さらに、翌年開始予定の江戸城外堀普請の準備や情報収集にも怠りなく、普請担当の奉行等に指南を仰いでいる(二八〇七・二八〇九・二八一二号文書等)。
 その後、慌ただしく一月十六日に国元を出発し(二八七八号文書)、二月十四日に江戸へ着いた(二八八九号文書)忠利は、年末まで江戸に滞在を続ける。その間、忠利にとってもっとも大きく晴れがましい出来事は、七月二十三日の江戸城内家光御前での息六丸の元服であった。この時、六丸は、元服し肥後守を名乗ることを命じられるとともに、家光から「光」の字を拝領し侍従に任ぜられた。その御礼に忠利と三齋も同席し、「御前に而大酒を被下」「三人共ニ御こし物・御わきさし拝領」となった。さらには「今度被成御取立、九州ニ被為置候、不相易肥後守事も御心易御奉公仕候へ」との家光の「御意」を伝えられている(二九七四・二九七五号文書等)。続いて、武家伝奏等を通した諸手続(口宣頂戴奉書のやり取り等)に関わる記述が多い(二九八三・三〇一〇号文書等)。
 また、江戸石垣普請用の石材、普請人員用の小屋場の手配を、幕府普請奉行たちの間の意思の不統一に不安を抱きつつも(二九五一号文書)、彼等と逐一相談しながら進めている(二九九四・三〇〇三号文書等)。普請入用は大きな負担であり、表立って不平を述べることは決してないが、親しい間柄の長崎奉行榊原職直に対しては「扠も扠も事々敷かねの入様、思召外ニ候、思召外ニ候、御普請ニはや三万両の上入由申候」(三〇〇八号文書)との本音が出ている。
家光は、四月二十三日から「少々御風を被成御引、御不食被成」(二九三一号文書等)という体調になった。忠利は家光の病状に関する詳しい情報を集め、かつ曽我古祐・烏丸光廣・吉田浄元等に逐一それを報じている(二九三〇・二九三一・二九三二号文書等)。とはいえ、家光の「病状」は、命に関わるほどの深刻なものではなく、その最中に飲酒をし(二九三一号文書)ている。回復後は、茶宴を催し(二九七九号文書等)、大船安宅丸上で思い思いの行装をさせた諸大名とともに宴を張る等の気晴らしがなされている(二九八八号文書)。
 四月頃から幕閣は武家諸法度の制定に忙殺され、六月二十一日には、諸大名を江戸城大広間に集め、林道春により「御法度之御書出」の読み聞かせがなされた。この写は、仙石久隆や曽我古祐等に送られるとともに、その内容について、忠利の感想や解釈が述べられている(二九四九・二九五〇・二九五一号文書等)。なかでも「綾羅錦繍」の使用を禁じた条文については、それを文字通りではなく「結構なるもの無用」という意味に解釈するとともに、その結果、唐物がこれまでのようには流行らなくなるのではないかと予測している(二九六五・二九六八号文書)。さらに長崎奉行榊原職直からは、この法令の影響で、長崎では巻物類の売買が閊えて生糸値段が高騰し、巻物よりも金糸物が流行っていることが報じられている(二九八九・二九九六号文書)。
 十一月一日からは、切支丹の全国一斉改が行われているが、これは忠利が幕府へ自ら提案したものであった(三〇〇七号文書・三〇二六号文書等)。
(例言二頁、目次一九頁、本文二四三頁、人名一覧二二頁、価八、三〇〇円)
担当者 山本博文・小宮木代良・松澤克行

『東京大学史料編纂所報』第39号 p.42*-43