8.丸岡有馬文書の調査・撮影

二〇〇二年一一月lニー日、吉川英治記念館(東京都青梅市柚木二一〇一―
一)に赴き、同館保管の丸岡有馬文書を調査しマイクロ・フイルムに撮影した。
同文書は、本所架蔵謄写本(架番号2071.44/4)「丸岡有馬古文書」(明治
一八年三月一〇日干菓県華族有馬道純蔵書写、四〇丁)の原本で、箱蓋に
「原城落城之砌書状 十六通」と金泥で記された黒漆塗箱に収められている。
 成立と内容・伝来については、元所員で今回の調査に協力願った高木昭作
氏の史料紹介「吉川英治旧蔵の「丸岡有馬文書」について」(『草思堂だより』
一一巻三号、吉川英治記念館、二〇〇二年) に詳しい。
 全一八通から成り、うち一六通は、島原・天草一揆の原城攻略戦に参陣し
た日向延岡五万三千石の大名有馬左衛門佐直純宛の書状で、年次は寛永一五
年(一六三八)二月二八日の落城前後に集中し、直純・康純父子の武功を証
する内容が中心である。慌しい戦地で直純が発信した書状に対する諸大名か>
らの返書を主に、後日江戸の大名・旗本から受信した書状や、直純の死去
(寛永一八年四月二五日)直前に嫡男康純に充てた置文を加え、寛永一九年
に箱に収められた文書群である。その後、元禄八年(一六九五)の直純の孫
清純の越前丸岡転封後も子孫に相伝され、明治一八年(一八八五)には修史
局により探訪されて謄写本が作成され、第二次世界大戦後の昭和二五年(一
九五〇)に作家吉川英治氏(故人)が入手し、現在は同記念館に保管されて>
いる。
撮影目録は次の通り。
番外1 午 (寛永一九年) 三月二日  図師勘三郎裏書控 (入日記または目録
に代えて)
1 (寛永一五年二月) 二九日     松右衛門佐(黒田忠之)沓状   竪文
2 (寛永一五年) 三月一日      細越中(細川忠利)書状     竪文
3 (寛永一五年二月) 二八日     細肥後(細川光尚)書状     竪文
4 (寛永一五年) 二月三〇日     有玄番頭(有馬豊氏)膏状    竪文
5 (寛永一五年) 三月三日      立左近(立花忠成)書状     竪文
6 (寛永一五年) 二月一一九日    立左近(立花忠成)書状     竪文
7 (寛永一五年) 三月一三日     細越中(細川忠利)書状     折紙
8 (寛永一五年) 三月二〇日     細越中(細川忠利)書状  折紙(表裏)
9 (尭永一六年) 一月二五日     小石近太夫(小笠原忠真)  番状 折紙
10(寛永一五年カ)一一月二日    井伊掃部頭(直孝)書状     折紙
11(寛永一五年) 一一月二三日    堀丹後守(直寄)書状(封紙有) 折紙
12(寛永一五年) 五月一四日     尾畑勘兵衛(縄直)書状     折紙
13(寛永一五年) 四月二四日     中根夫隅守(正成)審状     折紙
14(寛永一五年) 三月二七日     石十蔵(石谷貞晴)書状     竪文
15(寛永一五年) 五月一四日     尾畑勘兵衛(縄直)書状     竪文
番外2 (寛永一人年) 三月吉日    有馬直純置文 (嫡男康純充)   竪文
黒漆塗箱蓋書
 なお、高木氏作成の文書目録の7番(本撮影日録の6の次に位置する) の
(寛永一五年二月二九日カ) 即刻 官本武蔵 (玄信) 書状       竪文
については、展示用に別筐されていたため既存の写真の提供を受けた。

                              (山口和夫・及川 亘)

『東京大学史料編纂所報』第38号