大日本史料第五編之三十二

本冊には建長元年(一二四九)是歳、雑載、建長二年正月を収めた。あわせて補遺を付した。
 まず是歳の記事として、源泰光と小槻為景の卒伝を収めた。泰光は朝廷政治の表舞台に登場することの少ない人であるが、和歌に堪能であった。為景は記録所の職員などになって、下級官人として朝廷政治を支えた人であるが、その活動は断片的にしか伝わることがない。今回、できうる限り網羅的に彼の事跡を集めた。
 建長元年雑載は、災異、神社、仏寺、公家、諸家、疾病・生死、学芸、荘園・所領、検注、年貢`公事、寄進、譲与・処分、売買、雑の十四項目に分類して史料を収めた。各項目の中では関係する事項ごとに史料をまとめ、もっとも早い月日にかかる史料を有する群から順に配列した。すなわち次の通りである。
災異"火災
神社=祇園社、伊勢神宮、野上八幡宮、吉備津宮、春日社、櫛田宮、佐渡八幡宮
仏寺=高山寺、醍醐寺、興福寺、時光寺、阿弥陀寺、高野山、唐招提寺、石峯寺、東大寺、園城寺、示現寺、青蓮院、常楽寺、東福寺、万寿寺
公家=藤原兼経参院、藤原兼平参内、藤原公基夜番、源基具鬼間祗候、叙従五位下、左衛門少尉任官、馬寮御監任官、左右衛門志任官
諸家=藤原兼経、藤原実基、藤原公光と藤原実親、藤原実経、藤原実雄
疾病・病死=疾病、生誕、死没
学芸=和歌、漢籍、聖教、銘文
 ついで、建長二年正月の史料であるが、その中で目をひくのが正月十一日の条に収めた前天台座主入道道覚親王の卒伝である。
 道覚は後鳥羽天皇の皇子で、はじめの諱は朝仁親王。山門青蓮院の格式の上昇を企図する慈円の要請を受けて同院に入室、慈円の後継者に擬せられ、出家して道覚と称した。道覚は慈円から多くの法を授けられ将来を嘱望されていたが、承久の乱で父後鳥羽上皇が幕府に敗北するや西山に隠棲、一旦京都の仏教界から隠遁する。のちに善峯寺となる西山の地で道覚は浄土宗西山派に学び、浄土宗の教義についても精通するようになる。やがて朝幕関係の融和がすすみ、道覚は後嵯峨上皇の命により、京都に帰って天台座主に任じられる。
 本冊は波乱に富んだ親王の人生を跡づけるとともに、親王の学んだ仏典をまとめた。当時の顕密仏教の頂点に位置する高僧が、いかなる行法を伝授されていたかを知るための、格好の歴史資料となるであろう。加えて現在京都青蓮院に所蔵されている聖教の中から、道覚が執り行った北斗法の記事を発見し、その翻刻に当たった。左記の「大王現行集」がそれである。
 末尾に補遺として、「経光卿改元定記〈寛元宝治建長〉(国立歴史民俗博物館所蔵)により、宝治元年二月二十八日「宝治ト改元ス、是日、陣定ヲ行ヒ、摂津国条事ヲ議ス」の条、建長元年三月十八日「建長ト改元ス、是日、摂津国条事定アリ」の条、「御産部類記」十六(宮内庁書陵部所蔵伏見宮本)により宝治二年十二月五日「後嵯峨上皇、大宮院御懐妊ノコトニョリ、陰陽家ヲシテ、明年三月ノ熊野御幸延引ノ可否ヲ占ハシメ給フ」の条、「大王現行集」下(脊蓮院吉水蔵聖教類第八十三箱所収)により建長元年六月九日「天台座主入道道覚親王、若宮〈後嵯峨上皇皇子恒仁〉御祈トシテ、北斗法ヲ修ス」の条、建長元年七月二十四日「後嵯峨上皇ノ皇子〈恒仁〉ノ御五十日ノ儀ヲ行ハセラル」の条に史料を追加し、一部綱文を改めた。
(目次四頁、本文三三一頁、補遺目次二頁、補遺本文五五頁、本体価格七、一〇〇円)
担当者近藤成一、本郷和人

『東京大学史料編纂所報』第38号 p.26-27