大日本古文書 家わけ第十 東寺文書十三

東寺文書は、京都府所蔵、府立総合資料館保管の「東寺百合文書」の翻刻を継続している。本冊では前冊に引き続き百合文書「よ函」の大永六年から天正十三年に至る間の文書を収載し、この函を終了した。ついで「た函」に入り正和三年より応永元年までの史料を収めている。
 「よ函」は基本的に学衆方の史料を収納しており、本冊には伝法会試講着到、御影堂論義結番定文、伝法会・勧学会の学頭職補任に関する寺僧の意見状等がみられる。着到には、出仕僧の交名とともに配文と問題が記載されていて、春秋二季伝法会試講では、釈摩訶衍論(釈論)と大毘盧遮那成仏経疏(大日経疏)とが交互に論義されていたことがわかる。東寺における論義運営の内容は、こうした史料から伺うことができる。また、「わ函」に多く見られた造営方の文書も少なからず混じっており、造営料所であった大巷所や東西九条の算用状・注文がある。
 一方「た函」には、主として宝荘厳院方の評定引付が納められていた。宝荘厳院は、長承元年(一一三二)、鳥羽上皇御願寺として京都白川に建立され、その後堂舎は失われたが、元徳二年(一三三〇)に執務職(給主職)およびその管轄下にある寺領が、後醍醐天皇によって東寺に寄附されている(「百合文書」イ函五一号(一)など)。しかし寺領管領の権限が東寺に移ってから後も、宝荘厳院敷地を、南朝が院の牛飼衣服料に安堵したり(第三号)、北朝が召次衣服料に宛行ったりしているし(第一五号)、また執務職についても北朝によって東寺の寺僧以外の者に補任される場合があったこと(第三・七号、「百合文書」こ函八八号〈京都府立総合資料館編『東寺百合文書目録』〉)などからみると、宝荘厳院は皇室領という性格をなお強く保持していたものと考えられる。
 このような宝荘厳院方の性格は、次の事例にもよく現われている。現存の宝荘厳院方評定引付の中で最も古い第三号の評定引付は、その料紙紙背の大部分が、文和三年に執り行われた後光厳天皇の大嘗会役催促に関する綸旨である。おもての評定引付の記事に関連して、ことさらに用いられたものであった。これらの綸旨は、宝荘厳院執行あるいは最勝光院執行に宛てられているが、最勝光院もまた建春門院の御願寺であり、その執務職が、正中二年(一三二五)に後醍醐天皇から東寺に寄附されていた。この大嘗会役賦課の形態は「訪」であることが明記されている記事もみられ(十二月五日条)、訪の要請、請文による領状あるいは辞退、そして了承した場合の訪の供出という負担方法をとっていたことがわかる。さらにこの時の賦課は、東寺に関していえば、両院に要請された例以外は確認できない。そうしてみると文和年度の大嘗会役賦課は、特に皇室領としての両院に対して行われたものであったと考えられるのである。
 ついでこの第三号の紙背文書の中でもうひとつ注目されるのが、宝荘厳院本尊の衣修理のための株木調達を東寺に依頼した、文和四年のものと推定される東寺大仏師康俊書状である(年代推定は、評定引付本文の文和四年十二月二十四日条による)。康俊の東寺大仏師としての証拠は、観応二年(一三五一)の兵庫如意輪寺如意輪観応像と延文四年(一三五九)の兵庫円教寺金剛薩?像の造像名の記載によっているが、また応永二十九年に記された「東寺凡僧別当私引付」(随心院文書、京都府立総合資料館『資料館紀要』二三 一九九五年)中にも康俊が東寺大仏師たることを示す記事のあることが、根立研介氏によって明らかにされた(「東寺大仏師職考補遺」 『仏教藝術』二二二 一九九五年)。さらに南都大仏師であった前半生と京都七条系仏師といわれた後半生とは、ひとりの康俊のものではなく、別の二人の康俊が存在したのではないかという説も、近年田邊三郎助氏によって提起されていて(「大仏師康俊・康成について」 『大仏師康俊・康成の研究』 恵日山光堂千手寺 一九九七年)、今後康俊に関する史料の発掘が望まれる状況にある。そうした中で、この「た函」の書状は、それ自体には東寺大仏師という職名は記載されていないものの、これまでに判明している康俊の事蹟の中に位置付けてみれば、東寺大仏師の立場にあった者の書状であると考えられ、康俊に関する数少ない文献史料として重要なものであるといえる。なお、康俊が東寺大仏師職にあったことを示した系図として、影写本「富田重助氏所蔵文書」中の東寺関係記録断簡に書写されている「東寺大仏師系図」が参考になることを指摘しておく。東寺大仏師に関しては、第二二号の永徳三年宝荘厳院方評定引付の四月某日条に「大仏師康湛」がみえ、これまで系図類では応永元年補任(根立氏は前掲論文で同四年の誤りとされる)、また先にあげた「東寺凡僧別当私引付」では応永四年正月廿八日の補任状が確認されていた康湛の東寺大仏師補任の時期がさらにさかのぼることがわかる。
 さて宝荘厳院方では、康永四年(一三四五)二月、東寺の供僧・学衆一同の評議を以って、執務職得分を東寺勧学会料に充てることを決定した(「東寺文書」六藝楽甲二)。したがって、宝荘厳院方の評定においては、宝荘厳院敷地をはじめ近江三村荘、近江速水・河道荘本家役、丹波葛野荘本家役、遠江初倉荘本家役、阿波大野荘本家役などの各寺領支配のこととともに、執務職・勧学会学頭(読師)・勧学衆(籠衆)・雑掌・預等への得分・相節下行のことが主たる議題となっている。なかでも宝荘厳院寺領支配に関わっては、知行確保のために、東寺はたびたび訴訟を起こしているが、そうした記事からは、北朝・南朝さらには幕府訴訟機関―引付沙汰、御前沙汰、管領沙汰―の動向や、主な寺領の所在地である近江国の守護佐々木氏周辺の動きを追うことができる。
 その他では宝荘厳院本尊の修復に関する記事が目に付く。先の東寺大仏師のこともそのひとつであるが、また修復のための料足を、修理未着工によりただ徒に取り置くままでは失墜の基であるとして、寺内の他の組織や寺僧に貸し渡す事業を行っている(第三号など)。ここからは、東寺における融通や金融についての考え方や運営の実態を知ることができる。
 また、第二号(一)の室町幕府引付頭人奉書の発給者「沙弥」は、これまで宇都宮蓮智に比定されていたようであるが、「百合文書」レ函五二号(二)の正文花押の形状が、「三浦和田文書」にみえる観応元年四月十二日引付頭人奉書の差出「縫殿頭(長井高広)」(佐藤進一「室町幕府開創期の官制体系」 『中世の法と国家』 東京大学出版会 一九六〇年)と一致することにより長井高広とした。また法名は、「東寺光明真言講過去帳第二」の「沙弥高阿」「(同裏書)長井縫殿頭入道」の記載から推定した。
 最後に、本冊を翻刻するにあたって本所作成の「古文書フルテキストデータベース」を参照した。例えば「申御沙汰」ということばが文書の中でどのような語とともに用いられているのかを検索してみると、コンコーダンス方式の一覧表示により「有申御沙汰」「預申御沙汰」「申御沙汰候」「御申御沙汰候」など「有」「預」「候」などと結びついて名詞として用いられていることが一見してわかる。これは、尊敬の語句の付き方に違いがあるものの、同様の意味である「申沙汰」が「令申沙汰給」など動詞として用いられているのと対照的である。フルテキストデータベースが、用語法の研究に有効であることを再認識した。
(例言三頁、目次九頁、本文三二二頁、花押一覧二丁、花押掲載頁一覧表一頁、文書番号対照表八頁、本体価格七、二〇〇円)
主担当者 高橋敏子

『東京大学史料編纂所報』第38号 p.33*-35