大日本古記録 斎藤月岑日記四

本冊には、第三冊に引き続いて、弘化三(一八四六)年・同四年・嘉永元年・同二年の四年分を収める(原本第十二冊から第十五冊に相当)。
町方支配に関する事項。第三冊収載の弘化二年から引続き、月岑は市中取締掛・組々世話掛・諸色取調掛・米掛・人別掛の諸掛を兼帯して勤仕している。
弘化三年正月の大火直後は、材木や職人値段の調査を行い、同年六月下旬~七月中旬の大雨による江戸市中出水の際には、両国付近の詰場に出役して救助船の調査などに従事しており、後に褒賞されている。なお同年七月には、名主見習である養子亀之丞も御救掛に任命されている。
米掛関連では、大道舂米屋からの出願関係(弘化三年)や「仙台様御切手米一条」(弘化四年・嘉永元年)の記事が、取締掛関連では寄席や女髪結の取り締りの記事が、諸色調掛関連では鉄銅値段の調査などの記事が見受けられる。また小伝馬町牢屋敷への駆付も弘化三~四年にかけて十ヶ月間ほど課されている。
弘化四年八月、月岑は宝生太夫による勧進能の取扱掛に任命され、これ以降地所(筋違御門外)の見分や出銀集めに携わっている。そして嘉永元年二月六日~五月一三日の興行期間中(十五日間)には、雨天順延や興行の様子を簡略ながら毎日記載し、四月には「勧進能絵巻」を制作して諸方へ貸し出しており、日記にも興行場所を外から眺望した挿絵を描いている(巻頭図版に掲載)。
なお弘化四年と嘉永二年には、今までどおり神田明神社の祭礼掛に任命されている。
名主組合及び支配町内に関する事項。弘化三年一〇月以降、澤田善三郎(多町二丁目名主)の家督相続に関する記事が散見される(正式な名主役相続は弘化四年二月)。この三代目の沢田は養子であるが、養父の二代目沢田も実家は高崎の商家と記述されており、初代の婿養子となって相続した者と考えられる。
嘉永元年九月には、明田勘二郎(永富町名主)が若くして病死し、倅の清之介が幼少のため、後見人を立てて家督を相続させている。
月岑支配の四軒町地主が、浅草田原町名主の跡役となり引き移っているが(弘化四年一二月)、この地主の養子には、月岑の親類である普勝伊兵衛(小網町名主)の子供がなっている。因みに普勝家では、弘化四年四月に伊兵衛の養子伊十郎が名主役となり、嘉永二年には取締掛に任命されている。
青物役所関係事項。第三冊同様、本冊でも月岑は、村田平右衛門(平右衛門町名主)とともに青物役所取締役を勤続しており、それにともなう青物・土物・水菓子・乾物類の売買伺・不注進・納め方に関する記事が多い。弘化三年には在方と市中問屋との争論と推測される長芋一件で、ほぼ毎月町奉行所に呼び出されており、また相変わらず薩摩芋に関する記事も少なくない。
弘化三年正月の大火で青物役所も類焼するが、同月下旬には仮普請がなされ、月岑は「御役所類焼御用」繁忙につき褒賞されており、その後も七月の建前に至るまで、青物役所本建築の普請絵図作成などの諸業務に携わっている。
なお、嘉永二年二月に月岑は、須田町水菓子屋世話人に任命されている。
家内関係事項。弘化三年正月一五日の大火では、月岑宅も類焼する。一七日には板囲、一八日には竹矢来を施し、一九日には仮普請となるが、日記では仮普請図としてその間取りを具体的に描いている(巻頭図版に掲載)。二月には町会所より類焼貸付金を貸与され、三月には普請入札、四月中旬には家作の建前を行っている。この後屋根葺き・壁塗りなどを経て、五月下旬には畳が敷かれており、この前後の大工・左官以下の諸職人の動向が詳細である。
嘉永二年四月、亀之丞は御菓子司宇都宮内匠娘のおてつと婚姻するが、同月下旬に離縁となる。また翌閏四月上旬より、月岑娘のおはるが病気となり、度々医師を替えて療治を加えるも五月二〇日に十五歳で病死する。
こうした不幸が重なるなか、七月六日には亀之丞が突然家出をする。月岑方では、諸方へ人を遣わして探すとともに、月岑自身も勤務を度々休み、神田明神社には日参し、妻おれんは占い・加持・祈祷に赴くなど、家内心痛の様子が窺える。八月一六日の文通で、同人が高野山に居ることを知り、「始めて安心いたし候」と記す(亀之丞は、支配町人が同道して九月六日に帰宅)。
文化活動ほか。ひとつは声曲類纂の出版が挙げられる。弘化三年二月には声曲類纂三之巻の版木が、そして四月には全巻の版木が出来あがり、町奉行所からの販売許可も下り、五月には日尾荊山の序文清書稿も整う。一二月二〇日には刷上りの製本が完成し、須原屋が二十五部を持参し、月岑は三〇日にそれらを町年寄以下の諸方へ進物として届けている。
いまひとつは、武江年表の出版である。嘉永二年四月に草稿を須原屋に渡し、六月に浄書成り出版許可を出願、一〇月三日に日尾荊山の序文が整い、九日に版木すべてが、一三日に序文板が出来上がり、二六日に刷上りの製本を須原屋が十五部持参している。
また弘化四年一月には温泉名勝誌の草稿に着手し、嘉永元年には毎年出張している半夏生御用の絵巻物をも制作している。
文化人との交流としては、弘化三年九月晦日に「一立斎広重始而来る」と浮世絵師歌川広重が月岑宅を始めて訪問した記述があり、以後嘉永二年六月まで両者の往来の記事が散見される。
このほかに著名な歌舞伎役者の動静に関する記事もしぱしば見受けられる。
最後に、当該期間は地震の記事が多く、強い地震も二・三回あるという点を付記しておく(回数では弘化三年七回、同四年十四回、嘉永元年八回、同二年十七回)。
(例言一頁、目次一頁、本文三〇七頁、口絵二葉、本体価格九、四〇〇円、岩波書店発行)
担当者佐藤孝之・鶴田啓・松本良太

『東京大学史料編纂所報』第38号 p.36*-38