大日本史料第三編之二十六

本冊には、鳥羽天皇の保安二年(一一二一)正月より五月八日までの史料を収録した。この保安二年より天治二年(一一二五)にかけては史料の空白期で、連続的に記事が残された公家の日次記が伝存しない(天治元・二年は『中右記目録』)。そのため、第三編の既刊冊とは趣の異なるものとなった。
 この間の主な事柄としては、藤原忠実から忠通への摂関・氏長者交替にかかわる一連の動きがあげられる。すなわち、前年十一月十二日に白河上皇によって内覧を停止された関白忠実が、正月十七日に処分を解かれて形式的に内覧に復帰するが(四~六頁)、同月二十二日、忠実は嫡男の内大臣忠通に内覧を譲り(七~一四頁)、更に三月五日には、忠通が関白及び藤氏長者となった(一一八~一三二頁)。
 これに関連して、忠実が氏長者であった時期の内容を示すとされる『執政所抄』をほぼ全文収載した(一三三~二三八頁)。『執政所抄』は、正月より十二月までの摂関家が関与する祭祀・仏事などの年中行事に沿って、各行事の舗設・装束・用度及び所課の荘園名・国名などをあげ、摂関家の家政機関(政所・侍所・蔵人所など)や家政に携わった人々(家司・下家司・出納など)のなすべきことを列記する史料である。後世の追記とおぼしき部分のうち、末尾の天治二年「宮咩奠祭文」と既刊冊に収載した「清実朝臣記」寛治七年正月四日条・永久四年十二月十一日条は割愛した。
 『執政所抄』の成立年代と執政所とは忠実のそれであることは、義江彰夫「摂関家領相続の研究序説」(『史学雑誌』七六編四号、一九六七年)第二章の注(15)で詳しく考証されている。それによれば、成立年の上限は、春日御塔唯識会が始められた元永元年三月十五日以降、下限は、忠通が内大臣のまま関白で氏長者になる保安二年三月五日以前であり、「大治三年正月」(正月三日 修正事、一五二頁)・「保安四年以後」(四月中申日 御賀茂詣事、二〇一頁)・「大治元年」(六月十五日 祇薗御幣・神馬事、二〇九頁)・「天治」(十二月 宮咩奠祭文、二三七頁)の四箇所は保安二年より後の追記であると指摘されている。また、「保安二年以後」(四月 御祓前日松尾・賀茂下上社司葵桂持参事、一九一頁)についても追書の可能性が大きいとしている。『執政所抄』は院政期における摂関家の家政機関の研究や鎌倉期にかけての摂関家領の相続をめぐる研究において必ず利用される史料で、多く院政期の研究者は義江氏の説を容認しており、本冊でもこの説に従った。
 『執政所抄』の活字本は、続群書類従本(第十輯上)と史籍集覧本があるものの校訂に問題がある。現在知られている写本は全て近世の新写本で、寛元四年の本奥書があるが、古写本は知られていない。底本には、宮内庁書陵部や国立公文書館内閣文庫などに所蔵される諸本を比較した結果、近世中期の写本ながら比較的丁寧な写しである宮内庁書陵部所蔵の鷹司家本(架号 二六六―七三八)を採用し、同じく書陵部所蔵の和学講談所旧蔵本の続群書類従(巻二五七上・下)本及び陽明文庫所蔵本を主たる比校本とした。なお、現存の本書の構成は、正月から三月までの上巻と四月から十二月までの下巻の二部に分かれ、上下巻それぞれの冒頭に目録がつくが、収載にあたっては目録を最初に一括した。
 校訂に当たっては、先行研究(前掲義江論文、井原今朝男『日本中世の国政と家政』、中原俊章『中世公家と地下官人』、元木泰雄『院政期政治史研究』、川端新『荘園制成立史の研究』、佐藤健治『中世権門の成立と家政』、服藤早苗『平安朝の家と女性』など)を参照したが、それらは活字本の続群書類従本に拠っており、引用の誤りを訂正しながら本文を確定した。特に所課の荘園名に関しては、従来所在地不明の荘園も若干あったが、陽明文庫所蔵「近衞家所領目録」(京都大学文学部博物館編『荘園を読む・歩く』に写真掲載)などを参看しながら、誤写を想定して読みを改め、全ての荘園の所在地を確定及び推定した。なお、『執政所抄』の敬語表現や「御」の使用例から見て、本書を作成した階層は、忠実の政所の家司クラスというよりは下家司層ではないかと推定される。
 この他の出来事としては、正月二十二日から二十四日にかけて県召除目が行われた。除目関係の史料(一四~一〇〇頁)は、それぞれは断片的な史料だが、九条家本『大間成文抄』『春除目抄』などよってかなり詳細に知られる。正月二十五日に生じた穢(一〇〇~三頁)のため以降の年中行事に影響が出ているが、史料状況から実施日の確定が困難な場合もあった。また二月二十六日、左大臣源俊房は出家して大臣を辞し(一〇九頁)、三月一二日に代わって久我源氏の源雅実が一上宣旨を蒙っている(二四三~七頁)。三月二十六日には、宋国から送られた牒状への返牒について審議されている(二六二頁)。三月十四日条の石清水行幸(二四七~九頁)・四月七日条の賀茂行幸(二六六~七一頁)で掲載した九条家本『八幡并賀茂行幸記』は藤原忠宗『中右記』からの部類記である。
 本冊において事蹟を収録した者には、藤原光子(四月十六日条)と覚信(五月八日条)がいる。藤原光子は、中宮待賢門院藤原璋子の生母として知られる。藤原為房の妹で、藤原公実に嫁し、鳥羽・崇徳二代の乳母となって隠然たる権力を振るったという。研究文献としては、角田文衞『待賢門院璋子の生涯』(朝日選書)が参考となる。直接的に言及される史料は少ないが、本項では既刊冊収録の史料は限定的に再録し、未収録史料のうちでも『讃岐典侍日記』には他に言及箇所がある。
 覚信は、関白藤原師実の息で興福寺一乗院に入って貴種入寺の初例とされ、同寺別当また法務大僧正となった。甥忠実『殿暦』や『中右記』などに頻出するが索引等の便宜もあり割愛し、一乗院・大乗院旧蔵文書に史料を探索した。特に『類聚世要抄』に引用された覚信の暦記「大暦記」については、既刊冊(補遺を含む)にある程度収録されているが、全文を収載した。『類聚世要抄』は鎌倉中期頃に成立した興福寺の年中行事・故実の書で、項目ごとに摂関家出身の歴代興福寺別当の暦記を部類して引用している。荻野三七彦『お茶の水図書館蔵成簣堂文庫『大乗院文書』の解題的研究と目録』上(石川文化事業財団お茶の水図書館)に書誌的情報が載るが、閲覧停止のため、本所架蔵レクチグラフに拠った。暦記原形態を復元して時系列に編集することも考えられたが、割裂によって『類聚世要抄』の原形態を壊すことになり、重複や遡っての引用、頭書・朱書などが失われ、現在の研究状況・条件からみて適当でないと判断した。ただし原本では日付が変わるごとに改行する場合が多いが、一字空けで追い込んだ。別途、年月日順の目録などを作成したい。
 なお校了後、「三月二十日、賭弓」(二五一~三頁)については、掲出史料より詳細なものの存在に気づいた。宮内庁書陵部所蔵九条家本『賭弓部類記』は、建暦元年の古写本で、目録一巻・本文二巻に源師時『長秋記』永長元年から長承四年の記事を部類しており、第二巻には保安二年三月二十二日として長文の記事が引用されていた。ちなみに保安元年の記事は三月三十日、同三年は三月二十五日としてあり、保安二年には降雨があったという。
 『執政所抄』についてのみ、刊行後気づいた訂正箇所につき、ここにお詫びして示しておく。一四二頁八行目:美善→美善〔膳カ、下同ジ〕。一四四頁六行目:八粉→八杯。二〇一頁一三行目頭注:吉田祭→中子日/吉田祭。二〇二頁一一行目:四尺、大盤→四尺大盤。二〇三頁五行目:諸預〔請イ〕之→諸〔請イ〕預之。二一三頁一三行目:姫御前・御大盤所→姫御前御大盤所。
(目次五頁、本文四一一頁、本体価格七、五〇〇円)
担当者 田島公・藤原重雄

『東京大学史料編纂所報』第37号