『大日本史料』第三編関係史料の収集・校正および春日大社関係散逸史料の調査

標記の目的で、二〇〇〇年三月一三〜一六日の間、京都大学附属図書館・天理大学附属天理図書館に出張し、所蔵史料の調査を行った。事後の検討が不十分で既に紹介のあることを懼れるが、覚書をもって報告に代える。竪×横センチメートルを示す。閲覧に際しては、両館関係各位に御高配を賜った。ここに謝意を表したい。
京都大学附属図書館
[平松家旧蔵本] ※同館作成『平松旧蔵本分類目録』による。
○(四門—カ—21) 関白詔御拝賀次第 写一冊
 ※近世写。一三・六×一九・七。表紙共紙九丁。本文一丁目と二丁目の順序が逆で錯簡。内題「関白 詔御拝賀儀」。拝賀の日の早旦諷誦から参内拝賀、中宮・東宮拝賀、家司・職事の補任、吉書・政所始など一連の次第書き。
○(四門—シ—3) 執柄詔宣下事 写一冊
 ※近世写。一四・九×一〇・五。檀紙を半切(横五〇・四)して、四枚を継ぎ折本状にした一通。「執柄 詔宣下事」・「御慶申事」(院と内裏)・「御退出之後吉書事」と題す次第書き。上記(四門—カ—21)に比べ簡略な記述。
○(四門—マ—1) 政所吉書覧下備忘 写一冊
 ※一帙に二冊。1:内題「政所吉書覧下備忘」。一四・四×一〇・五。主人・家司の動きともに、比較的詳細に儀式全体を記した次第書き。2:内題「政所吉書覧下備忘〈恭光備忘〉」。一三・三×一九・三。家司の動き中心の記述。上記(四門—カ—21)と同筆と見られ、裏松恭光(幕末の公卿、明治五年没)により作成された一連のものであろう。裏松家と平松家の関係については未検討。
○(六門—コ—9) 宏寿法印御聞書 古写一冊
 ※後補表紙貼紙外題「宏寿法印御聞書〈御修法記/水丁等記〉」、打ち付け書「真源」(ともに表紙裏紙にも同様に書かれている)、別に貼紙目次あり、裏表紙見返しに「慶安五〈壬辰〉(一六五二)八月廿一日修復畢、権大僧都真源」。二六・〇×二〇・一。本紙四三丁。
 一丁オは宿陽経からの抜書で全体の性格からはやや距離のある備忘。二丁オ冒頭に「拾散記」とあり、本来の書名としてはこれを採用できる。続けて「永和四年(一三七八)六月三日、宝厳院於病席被語云、」として(どこまでを指すか判断は難しいが)、以下の表題で聞書・日記・文書写等を載せる。「仁和寺御所東寺奉行事」(書き出し「定隆(心蓮院)法印円寂之後、被仰宗賢法眼〈当庁務〉之処、…」、文中に「此事被語之時、宏寿尋云、…」とある)、「仁和寺辺世間者礼節事」、「於仁和寺申御免状事」、「被法会ノ色衆御請事」、「石山早任僧正事」、「東寺三綱事」(文末に「当年〈永和四年〉菩提院坊人宗慶…職任之時/重々回答之趣、当年日記ノ双紙ニ記之畢」とある)、「仁和寺所司三綱事」、「惣在庁両流事〈并大威儀師〉」、「諸門跡御入堂事」、「御室本寺御入堂事」、「御室御車榻役事」、「不慮ニ令参向覚人事」、「武家使節参仁和寺御所事」、「東寺々官人数事」(この後に余白あり改丁)、「官符与令旨替目事」、「若宮服忌人之事」(この後に一丁白紙)、「当院(宝荘厳院)最初頼宝法印大僧都事」、「当院第二院主禅宝僧都事」、「仁和師位御免年歯事」、「仁和寺昇進転任年紀事」、「灌頂万タラ供等還列時色衆不通持幡童中間事」(書出「至徳三(一三八六)、八、会中、宗慎語云、…」)、「書請取料紙事」(この後に余白あり改丁)、「東寺鎮守遷宮事」、「文観僧正後七日中間没落之時御道具事」(「慶音語云、正月七日」とあり以下書かれず改丁)、「慈覚大師廻時次等」・「弘法大師廻時」・「逆修時日次」(末尾「本云、或説云、行基菩薩御作云々、是又在□□(ヨメズ)」、「六条新八幡宮修理遷座事」(応永四年(一三九七)七月五日・八月二日の記事・指図)、文書写(鎌倉末期の法会参仕・祈祷命令の院宣・御室御教書・請文)、康暦元年(一三八四)十一月九日石山伝法灌頂の記録(この後に余白あり改丁)、同年十一月三十日等持寺結縁灌頂の記録(この後に余白あり改丁)、「若宮修正会湯漬沙汰之事」、「若宮事」、(六条)至徳三年(一三八六)十一月十四日東寺増長院伝法灌頂の記録(この後に余白あり改丁)、「弘法大師行状略頌」・「伝法院上人自筆記云」(自伝)、正法・像法の終焉の年期メモなど(この後に余白あり改丁)、「寺院在所記〈洛陽辺地〉」(仁和寺以下の一一六ヶ寺院の在所・建立者などの簡単な注記。末尾「延文五年三月記之云々(交了、眼前滲之注略之)、記者可尋之、若以写云記歟、如何、」と本奥書を書写して意見を表明。時折「宏ム云」として注記。途中で書体が変わるが、全体として宏寿の書写したものと見なせる。)、『古今著聞集』からの取意文(後述)、ここから筆が変わり「七僧法会事」として応永十五年(一四〇八)八月十六日の記録・指図、応永十八年(一四一一)五月三十日東寺観智院伝法灌頂の記録、同年八月二十二日東寺増長院伝法灌頂の記録(この後に四一丁ウ・四二丁オと白紙)、再び宏寿の字に戻り「付衣事」(法服の寸法を列挙し、応永三年(一三九六)十一月七日裁之定。綴じの側に修補時よりも古そうな字で「同(?)四十二」)、「堀河地子事」(綴じの側「同(?)四十三ヲハリ」)。
 以上では記さなかったが、しばしば情報源を明示しており、問答の形態を残している場合もある。「宏寿尋云」「宏ム云」といった記述から、現表題にある宏寿なる人物の記したものと推定される。内容から、宏寿が語ったことの聞書ではなく、宏寿が書き記した聞書と判断される。
 さてこの宏寿であるが、二七丁オの至徳三年東寺増長院伝法灌頂の記事に出ているその人であろう。ここでは宏寿のみに通称等が注されず、記主が誰であるかを物語っている。記事全文を引用する。
「至徳三年十一月十四日(金剛峯□□)、〈井—、木—、/丁卯、滅門、〉於東寺増長院/有伝法灌頂事、大阿闍梨法印権大僧都義宝〈五十〉/受者二人〈杲淳アサリ/尭清アサリ〉 一 色衆事〈十二口〉十二口
 法印権大僧都長海(蓮華乗院 宰相)〈唄/呪願〉権大僧都良宝(宝泉院 助)〈護摩〉常全(大慈院 介)〈教授〉/ 全基(内大臣) 権少僧都頼暁(普光院 刑部卿) 宏寿〈誦経/導師〉権(按察)律師隆禅〈散花〉/隆恵(二位)〈神供/扈従〉 大(中将)法師宗海 救運(侍従)〈讃〉守尭(治部卿)/貞宝(大夫)〈堂達〉
  十弟子/義慶(卿) 義賢(大弐)
  承仕/乗円 乗親                            」
 富田正弘「中世東寺の寺院組織と文書接受の構造 付 寺僧一覧・諸職補任・索引」(『資料館紀要』八、一九八〇年)によれば、宏寿は仮名少納言、永和二年(一三七六)より鎮守八幡宮供僧として見え、永徳二年(一三八二)より宝厳院(宝荘厳院)院主、応永三年(一三九六)より凡僧別当となり、応永十年(一四〇三)閏十月二十七日に法印で没した(『大日本史料』第七編之六、四六一・五〇一頁参照)。中世東寺の教学方面ではある程度名の知られた学匠で、櫛田良洪『続真言密教成立過程の研究』(山喜房仏書林、一九七九年、とくに三四七・八、三五八・九頁)にも触れられている(末柄豊氏御教示)。宝厳院を宏寿から継いだのは賢仲で、はたして三九オ〜四一オの異筆による三つの法会の記録にて、いずれにも題名衆・色衆として出仕しているのはこの賢仲のみである。
 全体に加除訂正、同筆による追記が多く見られ、宏寿自身による筆と見て大過なかろう。本史料の主たる性格は、永和四年から応永十年に没するまで、宏寿がさまざまな機会に入手した寺院社会に関する知識や興味を持った文献を書き付けていった冊子といえよう。これを賢仲が院家とともに伝領し、余白を使用したのであろう。『国書総目録』によると、東寺宝菩提院三密蔵には宏寿の著作が五点収蔵されており、他に経疏の写本もあることから、さらに検討が可能である。
 ところで、先に『古今著聞集』からの取意文としたところは、以下のような内容である。
「一、大内額事
東面三門ハ嵯峨天皇震〔宸〕筆、南面三門ハ弘法大師、/西面三門ハ大内記小野義材、北面三門ハ但馬守橘逸勢云々、/東面震筆安喜門ノ額ハ昔シ人ヲ取リケルトナン、古今著聞集ニ載タリ、
 寛弘年中(一条院)、行成卿依勅、修復大師御筆美福門額時、/奉成恐於大師影前備香花、奠読祭文〈江以言/草云々〉祈誓云々、/彼祭文云、/(祭文省略)
 以道風先事〈美福門ハ田広シ/朱雀門ハ米雀門ト奉嘲之云々〉如此欽仰之由、載古今著聞集、
一、閑院殿遷幸ノ時、年中行事障子ヲ可被書ニ、三位入道(綾小路)/行能ハ〈此名寂能/行経息〉所労之間不叶、 経朝々臣ハ〈為訴詔〔訟〕〉関東下向、/依(仍)無其人、古キヲ可被立ニテ有ケルヲ、何様ナリトモ家ノ内可書進之由被仰、経朝々臣カ子九歳ノ小童書進云々、
一、近江国ニ古寺魔所ニテ荒廃シケルニ、行能所額〔卿カ〕ヲ書ヲ/打テ後、魔縁シツマリ、寺繁昌云々、
     已上能筆           」
 対応する内容が巻七能書第八の二八七話と二九一話に含まれている。この次は巻七術道第九の二九五話(陰陽師晴明、早瓜に毒気あるを占ふ事)と同話。ただし、「解脱寺の僧正観修」が「広沢僧正寛朝」となっている。ここに登場する義家からの連想であろうか、巻九武勇第十二の三三六話(源義家、衣川にて安倍貞任と連歌の事)の同話と、三三八話の注釈に相当する内容「一、十二年ノ合戦ハ伊予守父子〈頼義/義家〉被責貞任・宗任、貞任ハ被討、宗任ハ降参、八幡太郎殿被仕ケリ、又其後八幡太郎殿永保被金沢城ヲ武衡被責落云々、」および、三三五話に見える「一、頼光四天王 綱・公時・定道・季武」との覚書が続く。
[菊亭家旧蔵本]   ※同館作成『菊亭家寄託本分類目録』による。
○(カ60) 関白宣下并准后宣下 写一冊
 ※近世写。表紙は宿紙を用い、「関白 宣下并准后 宣下」と打ち付け書。二七・一×一九・八。全一三丁。二丁オ朱方印「今出川蔵書」。朱筆あり。(本?)奥書「右一冊、以惟房自筆本、令書写者也」。本所架蔵写本『惟房公記』[4173—182](宝永四年、烏丸光栄写、附録:渡邉正男氏解説)の墨付三〜六丁と同内容で、一つ書の標目、三条西実隆・公条による次第作成のことに続き、「関白 宣下記」として万里小路惟房の日記天文二年二月一・五日条および文書案、末尾に「天文二年二月 日記之、/含鶏右少丞〈判〉」とある。史料本に比較して、祖本の形態をより反映した写本である可能性が高い。
○(カ61) 関白宣下并拝賀記(保元・寿永) 写一冊
 ※近世写。表紙は宿紙を用い、「関白宣下并拝賀記〈兵部/保元・寿永〉」と打ち付け書。二七・三×二〇・〇。遊紙共九三丁。朱合点・朱標書あり。朱方印「今出川蔵書」。内容は『兵範記』保元三年八・九月、治承三年十一・十二月、寿永三年正・二月の関白宣下・拝賀に関わる記事の部類記で、それぞれ「(朱)『○』兵部」、「普賢寺殿〈(朱合点)\初度〉/(朱)『○』兵部」、「普賢寺殿〈(朱合点)\第二度〉/(朱)『○』兵部」と見出しがつけられている。これに続き「裏書」として、大和国山口庄に関する相論文書が書写されている。京都大学附属総合博物館所蔵勧修寺家旧蔵本『人車記〈関白宣下部類 裏書〉』(本所架蔵写真帳[6170.68—1—66])が同内容。『兵範記』の部分は『歴代残闕日記』第一八五巻にも「信範卿記鈔出」として収める。『国書総目録』によれば、保元・寿永年間の記事を収める『兵範記』は他にもいくつかあり、内容の重なる写本も存在するであろう。
 しかしながら見出しの形式からも、『兵範記(人車記)』として伝来したのではなく、部類記の一部が『兵範記』記事収集の過程で取り込まれたと判断できる。もとの部類記として想定されるのが、見出しの形式が同様である陽明文庫所蔵『摂関詔宣下類聚』(本所架蔵影写本[3057—5])である。本書は現在上下二冊からなるが、表紙記載と所収記事とに齟齬があり、原形ではもう一・二冊程度多かったと見られる。上冊は、表紙「摂関詔宣下類聚〈六条殿/普賢寺殿〉」、目次「六条殿〈兵部〉/普賢寺殿〈初度第二度兵部/第三度 礼部〉」(朱合点略)、内容にはこれと対応しないところがあり、六条殿「兵部」保元三年八月・九月、普賢寺殿初度「兵部」治承三年十一月(二五日条途中から後欠)、知足院殿「右大丞」康和元年八月二八日(『大日本史料』第三編之五、五〇三頁以下)、〔藤原師通、嘉保元年(寛治八年)三月十一日〕(前欠、『大日本史料』第三編之三、二六九頁以下)を収める。下冊は、表紙「摂関詔宣下類聚〈猪熊殿/岡屋殿/深心院殿〉」、目次「猪熊殿〈初度 礼部/第二度 黄門〉/岡屋殿〈初度 二品/第二度 泉記〉/深心院殿〈泉記〉」、内容も対応しており、猪熊殿初度「礼部」建永元年三月(『大日本史料』第四編之八、八九五頁以下)、猪熊殿第二度「黄門」承久〔三年〕七月(『大日本史料』第四編之十六、四二三頁)、岡屋殿初度「二品」嘉禎三年三月(『大日本史料』第五編之十一、一六九頁以下)、岡屋殿第二度「泉記」寛元五年(宝治元年)正月・二月(『大日本史料』第五編之二一、三四二頁以下)、深心院殿「泉記」文永四年十一月を収める。
 このうち下冊に相当する部分の原本と見なせるものが、陽明文庫所蔵『平記』(十三函十五号「抜書〈多摂政関白進退拝賀之事等〉」、若干前欠、本所架蔵写真帳[6173—196])である。この紙背文書は、弘安から永仁頃の摂関家家司のもとに集まった文書群と推定される。なかでも意味的なまとまりをみせる「造講堂役」関係文書は、建治三年七月に炎上、正応元年八月に倒壊した興福寺講堂再建にかかるものであろう。また法成寺仏師職(紀伊国吉仲庄・播磨国緋田庄)関係文書は、丸尾彰三郎『蓮華王院本堂千躰千手観音像修理報告書』(妙法院、一九五七年)六六・七頁に言及がある史料に相当すると思われ、井原今朝男『日本中世の国政と家政』(校倉書房、一九九五年)四一八・四三九・四四二頁に翻刻されている。時期・性格ともに国立歴史民俗博物館所蔵『兼仲卿記』紙背文書に類似しており、『兼仲卿記』そのものと併せて参考になる。こうした紙背文書の性格は、部類記の内容面とも整合的で、鎌倉後期に摂関家家司によって編まれたことを裏付ける。
 さて本史料の後半部「裏書」の山口庄関係文書群は、祖本の紙背文書を写したものであろう。『鎌倉遺文』に「古簡雑纂七(関白宣下拝賀記裏書)」などとしてほとんどが収録されている。本史料の順序に従って番号を列挙する。(〔延慶二年〕三月十五日俊覚書状、頭左大弁殿宛、前欠)、一九一八、七九五〇、九五四六、一九一九五、二一〇五七、一一〇三六、二三六八一、二三七一六、二三七一七、一七三一七、一七三三六、一七三六一、一七四〇九、一七四三六、一七四三七、一七四七六、一七四八六、一七五〇四、一八二三九、一八二五五、一八二六三、一七一五二、二一一一六、二三六八〇、六一九七、(こうあん四ねん六月十八日法性寺姫宮かな書き譲状)、一四三四九、二三〇〇七、一六〇〇五、一六六六四、一六六六七、一六六五一、一五八七一、二一五八九、二一五九一、二三七九四号。内容・配列は整然としており、既に調巻された相論文書案の裏面を用いたようである。書状・断簡を多く含む一般的な紙背文書のあり方とは趣を異にし、先の『平記』紙背文書よりも時期が降るので、単純に僚巻とは言いにくい。(なお、『鎌倉遺文』にはこの他にも「古簡雑纂七」から採録された文書がいくつかあるが、それらは本史料に含まれていない。『鎌倉遺文』で出典とするのは、おそらく国会図書館蔵『古簡雑纂』(一二三函三六)で、西尾市立岩瀬文庫所蔵『古簡雑纂』七、本所架蔵写真帳[6171.02—31—3]は該当しない。国会図書館本は、原装十二冊・現装六冊で、各種古文書を謄写収集したもの。)
○(巻27) 建久九年八幡御幸記 写一巻・紙背文書
 ※後補表紙外題「建久九年八幡御幸記〈社家記〉」。三〇・七×約三〇〇。朱長方印「菊亭家蔵書」。全七紙、すべて紙背は書状。巻頭に「(社家記)建久九年二月廿六日御幸日記案」とあり、内容は石清水八幡宮御幸ではなく、後鳥羽上皇賀茂両社御幸に際しての下社(賀茂御祖社)神官の日記。二月二・十四(八幡御幸)・二〇・二五・二六日の記事を含む。御幸延引の経緯、社頭の舗設準備、御幸次第などが詳細に記され、先例との関係や費用負担をめぐって院側と神社側とのやりとりも具体的である。『園太暦』貞和三年六月十日条所引の賀茂光高勘文に「建久九年二月廿六日、召伊輔朝臣被仰勧賞、右大将仰権左少弁長房、——召祢宜仰之、任申請令息祐頼叙正五下、/於上社有供御、神主今度叙正四位下、——」(『大日本史料』第四編之五、七一八頁)とあるのは、本記からの抄出と見てよい。この宣下にある「息祐頼」は、賀茂県主同族会所蔵『賀茂祢宜神主系図』(本所架蔵写真帳[6175—29—1])に、祐兼〈祢宜、正四上〉の男として見える祐頼〈河合祢宜/母賀茂保久女〉と思われる(保久も同系図に見え、上社(賀茂別雷社)神主を勤め、仁平四年六月二十日に四十五歳で死したとある)。この記録も、内容的に記主を祐兼と考えてよいだろう。裏打もあって紙背文書の完全な解読ができず、手がかりも少ないため詳細な検討に至らないが、おおよそ鎌倉時代から南北朝時代の写本である。後日、国立公文書館内閣文庫所蔵『建久九年賀茂下上御幸記』が同内容の新写本であることを確認し、『古典籍総合目録』に岡山大学小野文庫蔵本のあることに気づいた。なお近時、鎌倉後期の上賀茂社神主の日記自筆原本が紹介されている(尾上陽介「賀茂別雷神社所蔵『賀茂神主経久記』について」『東京大学史料編纂所研究紀要』一一、二〇〇一年)。
○(シ76) 私要抄(宣下部) 古写一冊
 ※表紙「私要鈔〈宣下部〉」。二六・九×一八・七。表紙共紙二二丁。一丁オに朱方印「今出川蔵書」、朱合点あり。室町時代頃写か。内容は『増補史料大成』三三所収「妙槐記抄 宣旨案」に相当する。刊本の二一一頁下段・二一五頁下段の欠字部がちょうど破損しており、少なくとも刊本所収本の祖本である。また、刊本の二一五頁上段に相当する部分、文永十年七月十日条の後で改丁し、「(朱)『○』職事未下宣旨事〈可加納(?)之部〉」と題し、同じ文永十年七月十日条と十一月六日条を続けて書写した上で、小見出しおよび重複する七月十日条を抹消している。
 なお、『柳原家記録』四三(本所架蔵謄写本[2001—10—43])に『私要抄 叙位恒例臨時并女叙位』がある(尾上陽介氏御教示)。寛政八年(一七九六)柳原紀光写で、奥書によると親本も上・山槐記、下・花内記(=妙槐記)二巻からなる部類記であった。本奥書に「寛正三年(一四六二)正月叙位之議、依有不審事等、旧記尋探之間、中山亜相〈親通卿〉借与之了、故平亜相入道山槐記已下之内抄出之云々((朱)「按時継卿歟」)、予於灯火写留之、依〓劇不能校合、定書写之過可為繁多、後見之人能々可令思慮者也、((朱)「此奥書公綱卿歟」)」とあり、紀光の見た本が叙位の部類記であったことは確実だが、「故平亜相入道」(時継または経親か)の抄出した部類記全体とも限らず、本書との関係は検討課題。
 天理大学附属天理図書館
○「代々申状案」写一軸(一七五・イ二九)
            (『天理図書館稀書目録 和漢書之部』三 六四頁五三六)
 ※後補表紙外題「□□〔代々〕申状案」。往来軸刻文「大中□□□」「□□□□」としか判読できず。朱六角の旧蔵印「馬」あり。天理図書館印は昭和三四年(一九五九)六月二十五日付。本所架蔵影写本『田山文書』[3071.36—85—2](田山宗尭氏所蔵、一九一七年六月影写)、『市島謙吉氏所蔵文書』[3071.36—78](一九三二年五月影写)、『春日若宮神主文書』[3071.65—30](反町茂雄氏所蔵、一九四八年三月影写)に所収の原本。(以下、天理本と称す。)
 全十三紙いずれも書状を翻し、「代々申状」と内題して、下記の文書六通を連続して書写する。相伝の道理に任せて子息の春日若宮神主職に補せられんことを、藤氏長者に対して申請する若宮神主千鳥家代々の文書である。(以下、平・鎌はそれぞれ『平安遺文』・『鎌倉遺文』の文書番号を示し、特に注記のない場合は、当該年月日には収録しない。また出典名は区々だが省略。)

『東京大学史料編纂所報』第36号