大日本史料第二編之二十七

本冊には、後一条天皇の長元元年(一〇二八)正月から、同年十月までの史料が収めてある。
 この間の主な事柄としては、前冊と同様に入道前太政大臣藤原道長薨去後の諸事、中宮威子の御懐妊(六月十九日の第一条、一五四頁以下)、改元(七月二十五日の第一条、二〇四頁以下)などがあげられる。これより先、道長の薨去に依り、本年の朝賀并に諸節会の停止が定められていた(萬寿四年十二月二十八日の第一条)ことにより、正月一日には平座(同日の第一条、一頁以下)が、七日には白馬御覧(同日の条、五頁以下)が行われている。後一条天皇は二月二十九日に御除服(同日の第一条、四九頁以下)されるが、この間に停止された主な公事に、叙位議(正月五日の条、四頁以下)、女王禄(同月八日の第二条、一ニ頁)、射礼及び兵部省手結(同月十五日の条、一二頁以下)などがあり、その御心喪を理由に、御斎会に於ける音楽と内論義(同月八日の第一条、八頁以下)、釈奠に於ける上卿の拝廟(二月二日の条、二八頁)、列見に於ける宴穏両座(同月十一日の条、三二頁以下)などが停められている。また、道長のための仏事としては、法成寺に於ける四七・五七・六七日及び七七日法会(正月二十二日の第一条、一三頁以下)がある。
 中宮はかねて上東門院藤原彰子とともに法成寺にあったが、道長の七七日法会の後、女院の還啓に際し同車して上東門院に渡り、次いで内裏に参入されている(三月十九日の第二条、六二頁以下)。その御悩により、四月十五日には四堺祭等が行われたが(四月十二日の条、七六頁以下)、六月十九日には御懐妊による御祈りが一条院及び大神宮以下の諸社で、権大僧都心誉による不動調伏法が中宮で行われた(前掲)のを始めとして、法成寺薬師堂に於ける薬師・観音経等の転読(七月九日の第二条、一七二頁以下)、内供奉良円による御修法(同月十二日の条、一七八頁以下)などが行われている。九月二十七日には御産のため、中納言藤原兼隆の大炊御門第に行啓(同日の条、二九〇頁以下)されたが、中宮を気遣われた天皇は十月五日に御書を遣わされている(同日の第二条、三〇七頁以下)。
 次ぎに関白左大臣藤原頼通の行動についてみると、道長の七七日法会(前掲)の後の正月二十六日、頼通等兄弟が法成寺に参会し道長遺物の馬を処分(同月二十二日の第一条、一三頁以下)しているが、三月七日には道長の遺物を延暦寺経蔵に収めるとともに、同寺根本中堂に薬師法等を修している(同日の第二条、五五頁以下)。
 また、四月から九月にかけては炎旱や大風雨等自然災害に関する記事が多く注目されるが、四月十日の大宰府大地震(同日の条、七四頁)を始めとして、権少僧都仁海による神泉苑に於ける請雨経法(同月十三日の条、七七頁以下)、疾疫及び旱魃による大極殿に於ける大般若御読経(五月三日の第一条、一一〇頁以下)、風雨による法興院新堂顛倒(同月八日の第二条、一二〇頁以下)、丹生・貴布禰両社への祈雨奉幣使発遣(七月三日の条、一六八頁以下)、雨を祈る七大寺及び大和龍穴社(同月九日の第一条、一七〇頁以下)、東大寺大仏殿(同月十三日の第一条、一八○頁以下)・大極殿(同月一八日の条、一九〇頁以下)等に於ける仁王経転読などがあり、七月二十五日には、疫癘并に炎旱により長元と改元し、常赦を行っている(前掲)。この後も大風雨による豊楽院諸門・右近衛府庁等の顛倒、京都洪水(九月二日の条、二六九頁以下)、大雨による丹生・貴布禰両社への止雨奉幣使発遣(同月五日の条、二七三頁以下)などをあげることができる。
 この他、注目すべきものに平忠常の乱に関する記事がある。先ず六月二十一日、陣定により追討使が定められ(同日の第一条、一五九頁以下)、次いで八月五日、右衛門少尉平直方及び同少志中原成通が追討使として下總に発遣されるが(八月五日の第二条、二二〇頁以下)、この追討使発遣に至る経緯については、『小右記』『左経記』などによって、詳しく知ることが出来る。
 本冊に於いて、その事蹟を集録した者は、参議従三位勘解由長官藤原広業(四月十四日の条、七九頁以下)・上東門院新宰相(同上、一〇三頁以下)・天台座主僧正法務院源(五月二十四日の条、一二六頁以下)・式部卿敦儀親王室(八月二十三日の第三条、二四七頁以下)・摂津守兼左馬頭大江景理(同月二十四目の条、二四九頁以下)などである。
(目次一七頁、本文三二四頁)
担当者 加藤友康・厚谷和雄

『東京大学史料編纂所報』第36号 p.24*-25