大日本古文書 幕末外国関係文書 巻之四十八

本冊には、文久元年正月二十一日から晦日までの史料を収めた。
本冊の対象とする時期は、ヒュースケン暗殺事件を契機とする英仏蘭各国代表部の横浜撤退が終了し、江戸への帰還が行われた直後である。したがって、まず、この帰還に関係する英仏の報告書、米公使への通告、そして、幕府側の帰還準備などを示す文書を収録した(第五号、第六号、第一〇号、第二五号、第二六号、第二七号、第三八号、第五三号)。外国奉行による出迎えと祝砲については、帰還のための条件であったので、注目しておきたい。
また、オールコックとハリスとの対立(第九〇号参照)は、帰還にも拘わらず修復されず、その後両者は対立を続けたままとなる。
幕府は、英仏公使の帰還にあわせ、いくつかの事柄を準備していた。一つは欧州への書簡送付の問題であり、一つは(府内の)治安対策であり、もう一つは箱館居留地の問題である。欧州書簡の問題(第一号、第三五号、補遺之第一号)は、既に万延元年から議論されていることであるが、英仏公使の江戸退去により、ハリスが積極的に動いている。ハリスは書簡送付だけでは不十分とみて、使節派遣を積極的に薦めており、老中も基本的にはこれに同意している。治安対策は、江戸町内の取締強化(第三七号、第六七号)と外国人捕縛規則(第五五号、第五七号、第五八号、第七七号、第八三号)の問題である。さらには公使館新設問題も治安問題と関係してこよう(第六二号、第九一号)。第三の箱館居留地の問題(第三五号、第四一号、第四二号、第五一号、第七三号)は、同居留地の分配、および地代の問題である。老中はハリスと打ち合わせの上英仏へ打診するが、このやり方は当然オールコックらの反発を招くこととなった。
横浜では、万延元年九月に江戸で襲撃されたフランス公使館旗番ナタールが一時避難していた中国から戻り同地に滞在中、再度襲われる(銃による狙撃)事件が起こった(第四六号、第五四号、第六三号、第六八号)。また、ハリスが持ち出した居留地拡張が再確認され、それが直ちに横浜(神奈川)領事への指令となっていることが注目されよう(第三五号、第六〇号、第六一号、第八二号、第八三号)。
箱館では、ポサードニク号が対馬へ向け出航する(正月二十四日)。同号艦長ビリレフは万延元年暮長崎でリハチョフと合流し、対馬占領問題について打ち合わせを行った。正月五日に長崎を出て箱館に至り、しかるべき準備をして箱館を発つ(第三号)。本巻に収録した史料を理解する上で若干の補足を行っておく。まず、五九年日本海測量を行ったアクテオン号は箱館に立ち寄り、測量対象となった地域についての成果を誇った。この時期箱館に在留したイギリス人の対馬への関心は非常に高かった。こうした情報や雰囲気はすぐに同港に寄港するロシア側へ伝わることとなった(ホジソン『長崎箱館滞在記』)。そしてリハチョフがコンスタンチン大公に対馬についての情報を伝えた六〇年六月二日付書簡は、北塘から出されたものである。五九年に中国に派遣された露国公使イグナチエフは、何ら交渉の進展を見ないまま越年し、本国外務省は一旦北京退去を命じた。イグナチエフを収容するために(箱館からポシェット湾経由で)北塘へ向かったのがリハチョフであり、この書簡はイグナチエフ収容直後の発信となっている。おそらく残りの一通の書簡は中国についての状況報告であろう。外務省直系イグナチエフの対中国政策が手詰まりとなるなか、リハチョフが着実な勢力拡張の動きを見せたことが、大公としては激賞に値したのであろう。
そのほか箱館では、ロシア領事館の敷地拡張が大きな問題となっている(第六六号、第八七号、第八八号)。
長崎では、リハチョフとシーボルトの動きが重要である。リハチョフについては、同人あて長崎奉行岡部長常の書簡を収めた(第三〇号、第三一号、第四七号、第六四号、第六五号、主としてロシア海軍文書館所蔵リハチョフ文書である)。これらや前巻所収史料により、リハチョフの出港準備の様子と長崎奉行側の対応が了解しえよう。通訳志賀浦太郎の同行、航海中の物資の調達、悟真寺などの確保、ロシア語学習の問題、佐賀藩への大砲教授など、ロシア側の積極性がうかがえる。一方リハチョフと密接に交流しながら、長崎奉行へ積極的に働きかけていたのがシーボルトである(第一六号、第二〇号、第七五号)。シーボルトの従来からの主張は長崎のみの開港、ということであったが、長崎の優遇策と自由港化を提言している。こうした動きにオランダ側外交官は従来概して批判的であったが、そうした傾向は変わらない。また、長崎奉行岡部自身も、シーボルトが外交問題に関与したがっていることには閉口しているようである。
文久元年になると、開港という事態をふまえて、各地でさまざまな施策が立案されるようになる。本巻では、黒竜江への派遣船(第二三号)、俵物商法改革(第五〇号)、軍艦建造のための日本人派遣(第九二号)、横浜回送生糸の議定(補遺之第二号)などが挙げられよう。また、朝鮮からの通商条約通告への返事(第七九号)やルソン島からの漂流民の口書(第九五号)も重要である。
(目次三〇頁、本文四四〇頁、索引二六頁)
担当者 小野将・保谷徹・横山伊徳

『東京大学史料編纂所報』第36号 p.31**-32