大日本古記録 後法成寺関白記 一

本書は、近衛尚通(一四七二〜一五四四)の日記である。尚通は、近衛政家を父とし、越前朝倉氏の被官加治氏の女を母として摂関家に生まれた。尚通は延徳二年右大臣となり、明応二年二十一歳で関白・氏長者となって、同六年に辞し、永正十年再び関白・氏長者となり、翌十一年・十二年には太政大臣をつとめている。永正十六年には准三宮の宣下を受け、天文二年に落髪する。
 日記は、父政家が永正二年(一五〇五)に亡くなったあとを受けて、同三年正月元旦より起筆し天文五年(一五三六)十二月に及んでいる。この間、永正十一年・十二年、大永二年・四年・五年・七年、天文三年・四年の計八年分は現存していない。本文が伝わっている部分はすべて自筆原本が現存し、その二十一冊は財団法人陽明文庫に架蔵されており、これを本書の底本とした。自筆原本の表紙すべてに記主自ら「永正三年記」等と年次のみを記しているが、本書には一般に通用しているところに従って『後法成寺関白記』の題名を用いた。後法成寺は、尚通の諡号である。本冊には永正三年正月より同九年十二月までを収めた。
 原本はすべて袋綴の冊子仕立で、寸法はおよそ縦一五センチ強、横二二センチ強である。
料紙は詠草や消息及びその反古や書きさしを、長辺に平行に二枚に裁断し翻して用いている。この二枚を合せてもとの料紙に復元できるものが少なくない。このような料紙を二枚以上使っている文書もある。そこで現在残されている原本の範囲内で、出来るだけ文書の原態を復元して翻刻掲載した。なお永正三年の紙背と同七年の紙背とには一具であったものがままあるが、その他の年次ではそれぞれの冊の中にのみ存在する。いま永正三年の紙背と同七年の紙背が接続する場合を掲出すると左記のようになる。例えば、ある詠草は上下に裁断されてその上半部が永正七年の日記第一紙として用いられ、下半部が永正三年の日記第八紙として用いられているといった具合である。

『東京大学史料編纂所報』第36号 p.36*-37