大日本史料第十編之二十三

本冊は、正親町天皇天正二年(一五七四)六月十七日より七月末日までの史料を収める。
 中央の織田信長の動きとしては、まず高天神城赴援の出陣がある。信長は、武田勝頼によって包囲された遠江高天神城を援護するため、子信忠とともに出陣した。しかし三河吉田まで赴いたとき、もとは家康方であった高天神城主小笠原氏助の降伏、高天神城落城の報を聞いて、撤兵している(六月十七日条)。そしてその返す刀で、懸案であった伊勢長島の一向一揆を攻めるため出陣、諸城の攻略に着手した(七月十二日条)。
 なお武田氏対策に関して信長は、上杉謙信に書状を送り、九月上旬に両軍で武田氏を挟撃することを約束している(六月二十九日条)。
 朝廷関係では、伊勢神宮仮殿遷宮の事始が行なわれた(六月二十八日条)が、実際の遷宮は天正十三年まで待たなければならない。またほかに、東国の真言宗衆徒の絹衣着用を許可し、天台宗側にそれを認めさせる内容の綸旨が発給されている(七月九日条)。いわゆる「絹衣相論」と呼ばれる真言宗と天台宗の対立である。これまでこの発端となった天正二年七月の綸旨は未紹介であったが、「実相院文書」「高野山光明院所蔵文書」にその写しが残されていることが判明し、今回それらを収めた。これによって絹衣相論の一連の経過を発端から追うことが可能となった。結果的にこのとき発給された綸旨は、のちに柳原資定による謀書と断定され、相論は翌天正三年、同四年へと持ち越される。
 地方に目を向けると、中国地方では、毛利輝元が北島久孝に出雲国造職を安堵した(六月十八日条)ほかは、目立った動きを示す史料はない。
 九州地方では、後藤貴明が実子甫子丸(晴明)を嗣子に擁立しようとしたことに端を発する養子惟明とのいさかい、龍造寺隆信と貴明の盟約成立、貴明・惟明父子の和睦に至る史料を収める(七月十日条)。この父子間対立は、八月十七日に至って収束を見せるが、この間多くの無年号文書を騒動に関連するものとしてすくい上げたことにより、肥前国人衆の合従連衡の内実が立体的に浮き彫りにされた。またこれに関連して、龍造寺隆信は、後藤惟明と結んだ平井経治を須古城に攻撃している(七月二十二日条)。
 関東地方では、北条氏の動きは急で、北条氏政が由良国繁の要請によって上野厩橋城を攻め(七月二十六日条)、弟氏照は謙信に属する簗田晴助・持助父子が守る下総関宿城攻めを開始する(七月二十七日条)など、関東における上杉氏の拠点の攻撃をさらに強めている。
 上杉謙信は、それに対して援兵を出すいっぽうで、自身は越中・加賀攻略のため出陣、加賀朝日山城を攻略している(七月二十八日条)、この合戦に、吉江家から中条家に入嗣し、前月に軍役を定めたばかり(六月二十日条)の景泰も従軍したが、鉄砲の前へ駆け出すなど、剛勇ゆえの突出ぶりを危ぶんだ謙信は、景泰を「いまにおしこめ」、両親(吉江景資夫妻)に宛てて「さためてあんすへく侯」と心遣いにあふれる書状を送っている。
 東北地方では、四月に伊達実元が二本松城畠山義継の居城八町目城を攻めて以来交戦状態にあった伊達氏と畠山氏であるが、田村清顕を介して畠山氏側から和睦の申し入れがあったのにもかかわらず、伊達輝宗はそれを拒絶した(六月二十二日条)。また、出羽寒河江城の寒河江兼広が輝宗に背き、最上義光に属するという報を受け、輝宗はさっそく最上領口に位置する新宿まで出馬し、最上氏を威嚇している(七月二十五日条)。
 死没・伝記として、下総臼井城の臼井久胤(七月五日条)、義昭の旧臣三淵藤英・秋豪父子(七月六日条)、南禅寺・相国寺などの住持をつとめた禅僧仁如集堯(七月二十八日第二条)を収録した。
 三淵藤英は、前年七月、信長に対し抵抗を企てた義昭に与して二条城を守ったが降伏、その後居城の伏見城も廃城の憂き目にあい、近江坂本城に預けられていたと思われ、当所で子秋豪とともに切腹させられている。血縁的には細川藤孝の異母兄に当たり、義輝以来奉公衆として将軍に仕えた近臣であった。本冊では、前名藤之時代の発給文書や奉公衆としての活動、義昭入京前後における京都周辺地域の支配者としての活動を示す史料を収録した。最末期の室町幕府奉公衆の活動形態を見るうえでも興味深い。
 仁如集堯は、「中世五山文学者の悼尾を飾る人」という評価(『国史大辞典』)が与えられている著名な五山禅僧である。彼の詩文集『鏤氷集』を中心に、彼の詩作、師弟関係、交友関係、詩文の講義に関する史料などを収めた。
(目次六頁、本文二九九頁)
担当者 染谷光廣・中島圭一・金子拓

『東京大学史料編纂所報』第35号 p.24*-25