大日本史料第五編之三十一

本冊には、建長元年(1249)7月から12月までの史料を収めた。
 この時期は中核に据えるべき記録に恵まれていない。7月20日に順徳天皇に対し崩後7年にして追号が奉られ、12月13日に幕府の引付が始められる(9日評定衆北条政村等に引付頭を兼ねしめる条に収める)など、興味深い事件も認められるのであるが、その事情は詳らかにしない。
 8月14日、延暦寺衆徒が蜂起し、日吉神輿を根本中堂に振り上げた。これは仁治3年(1242)以来7年間空席であった四天王寺別当職が園城寺に付せられ、仁助法親王(後嵯峨上皇の同母の兄、園城寺円満院住)がこれに補せられようとしていることを怒ったものであった。結局、日吉社に阿闍梨10口を寄せ、惣持院灌頂の労2年を経る者を僧綱に補することを許すということと引き換えに、日吉神輿は9月3日帰座、6日仁助が四天王寺別当に補せられ、天台座主入道道覚親王は座主を辞すことになる。
 この間、後嵯峨上皇は、山門蜂起静謐の御祈として、8月24日より御所冷泉万里小路殿において五壇法を修せしめる。その次第については、五壇のうち金剛薬叉壇の阿闍梨寛耀に従いその伴僧を勤めた信寛(のちに深寛と改め東寺二長者に至る)が詳細な日記を残しており、仁和寺所蔵の写本(元応3年具注暦の紙背を料紙に用いている)により収録した。翻刻して60頁を越える記述には、通常7日間のところを延長して14日間行われた修法の準備から開白、結願、勧賞に至る事柄が詳細に記され、さらに修法の行われる原因となった山門蜂起の動きや、修法の期間中のその他の出来事も関連して記されている。この史料により8月下旬から9月上旬の動向が相当に明らかになった。
 事件の推移が明らかになれば、それ自体としては孤立した史料も改めて位置付けなおすことが可能になる。8月23日に幕府は、梶井門徒の静謐を求める事書と西国および京都近国の御家人の在京を六波羅に命じる御教書を京都に送っているが、これが上記の事件に関わるものであることは、上記の史料から事件の展開が明らかになることによって判明したものである。
 8月是月の第2条「室町院、〈暉子内親王〉法印権大僧都道融ヲシテ、金剛勝院領近江山前荘ヲ領掌セシム」に収めた史料は、伴瀬明美「鎌倉時代の女院領に関する新史料−『東寺観智院金剛蔵聖教』第280箱21号文書について−」(『史学雑誌』第109編第1号、2000年)により紹介された新史料のうち関係するものを、伴瀬とともに原本校正を行った上で掲載したものである。
 伝記史料としては、7月28日に薨じた仁和寺二品道深法親王、8月15日に出家し、ついで薨じた前祭主非参議従二位大中臣隆通、同月19日に薨じた入道前太政大臣従一位藤原公房、9月4日に寂した東寺一長者法務大僧正実賢、12月5日に薨じた大納言正二位源雅親のものがある。このうち、道深と実賢の伝記史料の編纂には、1995・96両年度非常勤講師土谷恵が参加した。
 挿入図版には、道深の伝記史料として仁和寺所蔵「孔雀明王同経壇具等相承起請文」(寛元4年3月21日、道深の花押と手印がある)、公房の伝記史料として成嘉堂文庫美術館所蔵「宣陽門院令旨藤原公房奉」(7月7日)を用いた。また別に、8月15日第3条(「僧道元、観月画像ニ自賛ヲ題ス」)に、宝慶寺所蔵「道元画像」を網版で収めた。
(目次13頁、本文371頁、挿入図版2葉)
担当者 近藤成一・本郷和人

『東京大学史料編纂所報』第35号 p.23