大日本史料第六編之四十四

本冊には、南朝長慶天皇の天授元年=北朝後円融天皇の永和元年(一三七五)六月から一一月までを収めた。
まず注目されるのは、一一月二三日に行われた後円融天皇の大嘗会と、それに至る準備に関わる史料である。『仲光卿記』として掲げた『仲光卿大祀御教書案』は、主基方行事勘解由小路仲光が、自ら奉ずる綸旨の控を綴った史料で、原本で伝わる(紙背文書も一部だが関連部分に掲載した)。行事所の設営からはじめて、主基卜食国である備中国への抜穂使派遣と用途収納、主基所和歌や屏風の手配、祭殿の準備や人夫の徴集等、行事弁の多岐にわたる業務の全貌を窺わせてくれる好史料で、本冊で分載した。一〇月二八日の御禊から一一月二六日の豊明節会にいたる一連の行事については、二条良基の仮名文『永和大嘗会記』に詳しい。さらに大嘗会当日の様子は、神祇大副吉田兼煕の手になる『大嘗会巳刻次第』から知ることができる。兼煕は別勅によって大嘗宮の一切を申沙汰するよう命じられ、通常は秘儀とされている神饌供進の場にも立ち会っているために、他に類例のない貴重な内容となっている。この史料については天理大学附属図書館および小川剛生氏に謝意を表する。ほかにも近衛道嗣の『愚管記(後深心院関白記)』をはじめ、『永和一品御記』、三条実冬の『実冬公記』、勘解由小路兼綱の和歌詠進記など、断片的ながら多様な史料がのこり、南北両朝の分裂による混乱が沈静化したのちの朝儀のありようを伝える貴重な事例となっている。大嘗会御禊行幸に際して、行幸に供奉する公卿らが、桟敷を構えて見物する足利義満に対して追従する姿勢をみせたとの記事もあり、義満の存在感が徐々に増してくる様子があらわれている。
六月には、新後拾遺和歌集の撰が始まる(六月二六日・八月是月条)。飛鳥井雅縁の『諸雑記』に、代々の勅撰集についての勘例や和歌所事始の詳細を載せる。また、前冊で二度にわたって延引された(三月三〇目・四月一三日条)北朝の長日三壇法が、六月八日についに始行される。『門葉記』の記事は、青蓮院門跡側と朝廷の奉行職事との間でとりかわされた書状の写しを多く含み、両者の交渉の細部を知ることができる。
武家では、引き続き九州の情勢が波乱に富む。とりわけ、八月二六日、肥後水島で、九州探題今川貞世(了俊)が少弐冬資を誘殺した事件は、貞世の九州経営の分岐点となった。島津氏久は南党となり(八月二八日条)、貞世は南九州の掌握に最後まで苦心することとなる。有名な事件ながらも一次史料の限られるなか、島津家家臣が文明年間に記した『山田聖栄自記』は、詳しい状況を伝える。冬資殺害ののちは、貞世軍の退去が続く。
また、断片的であるが、紀伊の南党との抗争を伝える記事もみえる。七月二五日条に掲げた東寺領矢野荘の史料からは、播磨守護赤松義則らが出陣し、国内から人夫や野伏(実際に従軍するもの)を徴集しようとしている様子が窺える。『花営三代記』は、南党橋本正督が幕府方となって紀伊に向かい(八月二五日条)、紀伊の南軍が敗走した(九月是月条)と伝える。
九月一三日条には、曹洞宗の僧侶道叟道愛の卒伝を収録した。道叟は岩手県水沢市の大刹正法寺の勧請三世、同市に存する永徳寺の開山であり、宗派の地方発展を考えるうえでも興味深い存在である。正法寺に関連史料が残り、今回調査を許されて掲載した。ここに改めて謝意を表したい。同時代史料は多くないが、後世の編纂物も含めて、できる限り関連史料を掲げ、正法寺において道叟の位置付けが確立する過程を追えるようにした。別刷図版には、正法寺所蔵の、応永二年(一三九五)の銘のある道愛木像を掲載した。
(目次二三頁、本文三九〇頁、挿入図版一葉)
担当者 山家浩樹・本郷恵子・本郷和人

『東京大学史料編纂所報』第34号 p.22*-23