大日本史料第三編之二十五

本冊には鳥羽天皇の保安元年(一二一〇)八月から十二月までと年末雑載の史料を収録した。
 この間の主な事柄としては、白河上皇が左大臣源俊房に命じて関白藤原忠実の内覧停止の宣旨を下させた事件(十一月十二日条、九六頁〜一〇三頁)がある。この事件は忠実の娘泰子の入内問題がこじれて起こったものである。忠実は翌年正月に一旦その処分を解かれ自ら関白を辞任し嫡男忠通があとを継ぐが、上皇による関白罷免という強権発動の結果、摂関の地位は地に落ち、従来、事実上、摂関家内部で譲渡されてきた摂関の地位が上皇の意志によって左右されることが天下に示されることとなった。本冊で最も注目すべき事件である。
 また藤原顕頼が五位蔵人に補任されたこと(十一月二十九日条)に関連し、「唐大和上東征伝紙背文書」のうち既に掲載した三通を除く九通の文書を収載した(一一九頁〜一二四頁)。それはこれらの紙背文書が元永二年(一一一九)十二月より保安元年ごろと推定される丹後目代宛ての文書など丹後国衙に保管された書状であると推定されており(保立道久「『彦火々出見尊絵巻』と御厨的世界」田名網宏編『古代国家の支配と構造』東京堂出版 一九八六年、のち『物語の中世 神話・説話・民話の歴史学』東大出版会 一九九八年、五味文彦「紙背文書の方法」石井進編『中世をひろげる』吉川弘文館 一九九一年)、顕頼が元永元年正月十八目から保安元年十二月二十四日まで丹後守であったため、まとめて収載した。
 本冊において、その事蹟を収録した者は、�刑部卿源道時(八月二十二日条、六頁〜一九頁)、�近江守高階重仲(九月二十五日条、三六頁〜五〇頁)、�参議兼左近衛権中将藤原信通(十月二十一日条、六一頁〜八八頁)、�権少僧都永清(十月二十六日条、九〇頁〜九四頁)、�法橋定深(十一月二十二日条、一〇八頁〜一一二頁)、�讃岐守平正盛(十二月十四日条、一三一頁〜一七〇頁)、である。このうち、�平正盛の死去の日は記録に見えないが、正盛の履歴として伝えられる最後のものが保安元年十二月十四日の京官除目であり、五島美術館所蔵(保坂潤治旧蔵)の平忠盛自筆の「阿弥陀経」奥書から忠盛の先考(亡父)である正盛の忌日を四月二日であると推定できる(龍粛「六条院領と平正盛」『平安時代』春秋社 一九六二年)ことから、保安二年四月二日説が有力である(高橋昌明「正盛・忠盛と白河院政」『清盛以前 伊勢平氏の興隆』平凡社 一九八四年)。しかし本冊では慎重を期して正盛の最後の消息となる十二月十四日条に正盛の事蹟を収録した。なお図版に「東南院文書」所収の平正盛書状を収載した。
 年末雑載のうち、仏寺には、一九九四年に発見された広隆寺上宮王院聖徳太子像内納入品・同像内銘を調査報告書(伊東史朗編『調査報告 広隆寺上宮王院聖徳太子像』京都大学学術出版会 一九九七年)より収載したが(一九六頁〜二〇三頁)、像内墨書銘に関しては調査を担当された伊東史朗氏(当時京都国立博物館資料調査研究室長・現在文化庁美術工芸課主任文化財調査官)撮影のビデオ・イメージ・スコープによる調査ビデオを借用し、校正の際に釈文を確認した。ビデオの使用を許された伊東氏に感謝申し上げる。
 勘会公文では、宮内庁書陵部所蔵九条家本『中右記』長承元年春夏上紙背・同年秋冬紙背に収められる摂津国関係の七部五種類の勘会文書、すなわち(1)「摂津国正税帳案」�(二八〇頁〜三〇七頁)・「摂津国正税帳案」�(三〇七頁〜三二九頁)、(2)「摂津国大計帳案」(三二九頁〜三五一頁)、(3)「摂津国調帳案」�(三五一頁〜三七三頁)・「摂津国調帳案」�(三七三頁〜三八八頁)」、(4)「摂津国租帳案」(三八八頁〜四二六頁)、(5)「摂津国出挙帳案」(四二六頁〜四四一頁)を『平安遺文』第一〇巻補四三〜補四八号は勿論、原本調査とこれまでの研究成果(米田雄介「摂津国租帳に関する基礎的考察」『書陵部紀要』二四号 一九七二年、平田耿二「保安の「摂津国大帳案」の戸口統計とその内訳」『日本古代・中世史 研究と資料』六号 一九八九年、など)を参考にしながら翻刻した。本文書は折込図版に示したように(1)�の冒頭に「保安元年税帳」云々とあることから、他の無年紀の文書も含め保安元年ころの勘会公文であるとされているが、記載項目には九世紀から一〇世紀の内容も含まれている。しかし、その後何度か転写されたらしく、さらに吉書的な文書であることに以下述べるような蠹蝕も加わり、特に数字の合否については統計上どうしても整合しない部分が多く、計算によって推定や訂正を注記した部分もあるが、やむを得ずそのままとした箇所も少なくない。また、本文書には一定の間隔をおいて蠹蝕が存在するが、それは九条家本『中右記』のかつての利用形態によるらしい。九条家本『中右記』を修補した一人である吉野敏武氏(宮内庁書陵部図書課修補係長)の説明によれば、この『中右記』は、或る時期、巻子本が折本状になっていた時があり、表の日記面から見て、谷になる部分の紙背文書側に糊を付し、谷の部分同士くっつけ合って、あるいは包背装のような形態にした時期があったのではないかと推定され、その後、糊付けされた部分が蠹蝕のため失われたため、散逸しないようにやや大きめの紙縒で作ったリング状の輪でとめられていたらしい。詳細は吉野氏の報告に委ねることにするが、同様に巻子本が一時期折本にされ、谷の裏の部分同士糊付けされた例(国立歴史民俗博物館所蔵田中本『春記』)が報告されている(吉岡眞之「折本のヴァリエーション−田中本『春記』の旧装訂−」『日本歴史』六〇〇号 一九九八年)。また、別本が存在する(1)「摂津国出税帳案」・(3)「摂津国調帳案」は『平安遺文』では両者を統合しているが、新たな「異本」をつくるよりは、現状をそのまま示した方が誤解も生じにくいと考え、重複を顧みず敢えて原本通り別々に翻刻し、それぞれ�・�として収録した。また、『平安遺文』では(5)「摂津国出挙帳案」に関しても「別ニ同文ノ案一本アリ」と注記するが、そのような別本は存在していない模様である。なお、(5)「摂津国出挙帳案」(四二六頁九行目)の「案」の字が本文では脱落しているので、ここに訂正する。
 本冊の原稿作成は岡田と上杉が担当していたが、一九九八年三月、上杉の辞職(明治大学文学部へ)に伴い、所内異動(七編より)により四月からは田島が加わり、岡田とともに編纂刊行にあたった。なお、一旦編纂が中断していた三編の編纂を故土田直鎮氏とともに再開し軌道に乗せた岡田は停年のため本書の編纂刊行をもって一九九九年三月退官した。
(目次一一頁、本文四五九頁、挿入図版一葉)
担当者 岡田隆夫・上杉和彦・田島公

『東京大学史料編纂所報』第34号 p.21-22