大日本古記録 後深心院関白記

本書は、近衛道嗣(一三三二〜一三八七)の日記である。道嗣は、近衛基嗣を父とし、藤井嗣実女を母として、摂関家に生まれた。貞和三年(一三四七)内大臣、同五年右大臣となり、延文四年(一三五九)一上にのぼり、同五年左大臣に転じ、康安元年(一三六一)三〇歳で関白・氏長老となった。貞治二年(一三六三)関白を辞したのは、二条良基が再任するためであったが、応安四年(一三七一)にはまた内覧を命ぜられている。嘉慶元年(一三八七)五六歳で没した。日記は、原本において今使用されている名称を採って、後深心院関白記とした。後深心院は、道嗣の諡号である。本書は別名、愚管記ともいい、文科大学史誌叢書の愚管記は、近世の新写本を底本として、明治三九年木版で刊行され、のちに増補続史料大成に収められた。
 今回底本とした本書の自筆原本は、ほとんど全て財団法人陽明文庫に所蔵され、その中四八巻の巻子が重要文化財に指定されている。その他に、子孫の近衛信尹(〜一六一四)・近衛信尋(〜一六四九)・近衛尚嗣(〜一六五三)の手になる数種の書物の紙背として、元来は本書の一部をなしていた具注暦の断簡が、三〇〇紙以上も見出される。また天理大学附属天理図書館に所蔵される永和二年の和歌御会記一紙も、本書自筆原本の断簡である。なお若干ながら、近衛政家(〜一五〇五)の抄出本によってのみ日記記事の伝わる所がある。
 これらを総じて今日に伝存する所は、文和元年(一三五二)から永徳三年(一三八三)までの三二年間に及ぶが、永徳二年の一か年分はじめ若干の欠損部分もある。文和元年から同四年までの間については、特定行事に関する別記しか伝わらないが、延文元年(一三五六)から康暦元年(一三七九)にいたる間は、その年の具注暦に記入された暦記が伝わり、康暦二年から永徳三年にいたる間は、白紙もしくは前年の仮名暦の裏を用いた日次記が伝わる。
 自筆原本の現在の状態は、昭和六一年に刊行された陽明叢書後深心院関白記によって知られる。しかし自筆原本は、その伝来の途上、あるいは利用の便宜のため、あるいは保存の都合により、形態を変えたり、一部を分離して別に成巻したり、記入された記事のほとんどない具注暦を外して他の書物の料紙に転用するなど、種々の変更が加えられ、再びもとの位置に戻した痕跡をとどめる箇所もあるなど、やや錯綜している。そこで今回の編纂刊行は、記主近衛道嗣によって最終的にまとめられた形態を想定し、出来る限りこれに復することを目標とした。
 本冊に収めたのは、文和元・二・四年の諸行事の記録を集めた「日記 践祚以下落々」文和三年の「除目記」及び延文元・二・三・四年の暦記である。
 「日記 践祚以下落々」一巻は、表紙見返に道嗣自筆の目録があるので、この取り纏めが道嗣自身によることが削る。全部の料紙に天二本、地一本の同じ仕様の界線が施されているが、筆跡は、�文和元年八月一七日践祚事が、道嗣自筆。�文和元年九月二七日改元定事は、中原師茂筆の改元定記で、文章の主語は師茂であり、道嗣は右大臣殿と三人称表記である。前紙との紙継目には、「大外記師茂記続加之、余不記置之故也」と、道嗣自筆で記入してあり、道嗣が中原師茂記をそのまま自分の記録の代用としたのである。�文和元年一〇年二九日の院号定事は、道嗣自筆。�文和二年一〇月二八目の鬼間議定始事は道嗣自筆。�文和四年一二月二六目の万機旬事は、全部中原師茂筆であるが、主語の予は道嗣であって、師茂に浄書させたのであろう。以上のようにこの巻は、二一歳から二四歳にかけての道嗣が、新帝後光厳天皇のもとでの重要朝儀に参仕した時の、特に���は、道嗣が上卿を勤めた際の別記を、後に浄書し集成したものと考えられる。
 文和三年三月二六日からの「除目記」一巻は、道嗣が執筆を勤めた県召除目の記録であり、原表紙見返の紙継目に「右大臣正二位藤原朝臣(花押)年廿三」と自著している。料紙には、「日記 践祚以下落々」と全く同じ界線がある。一四張の中第五張の半ばまでが道嗣自筆であるが、中途から中原師茂の助筆に替わっている。「日記践祚以下落々」とは、表紙見返の自筆記入、料紙の共通性、本文筆跡の混合状態が、非常に似ているので、恐らく同じ時に、中原師茂の助力を得つつ道嗣自身が整えたのであろう。これも現在は巻子本であるが、虫損や折目の跡を点検すると、もとは横一九センチメートルの折本であって、その形態の期間が長かったことがわかる。利用の便宜のためであったろう。
 次に暦記に用いられた具注暦をみると、延文元年より康暦元年まで、全て一年分を春夏と秋冬の二巻に分け、一日分の間空き二行でずっと変わっていない。しかし年中行事注については、記入されている年と、記入されていない年があって、これがどういう事情によるのかは、一つの研究課題といえよう。本冊所収の範囲では延文元・二・三年にはあるが、四年にはない。
 延文元年より四年までの暦記の形態に関して、原本の伝来途上大きく二種類の変更が加えられている。
A.詳細な行事関係記事を、その日の暦注と一緒に切取り分離した個所がある。�延文元年正月三〇日(女叙位記)、�延文元年三月二八日(神宮事・改元定陣定記)、�延文三年十二月二一日より三〇日まで(吉書奏記・柳原忠光注送関白詔宣下記)、�延文四年正月摂関内弁例(踏歌節会記)である。これらは、暦記の他の部分と違って裏打がないだけでなく、いずれも端裏に当る個所に年月日または、内容を簡略に示した銘が記入されている。暦記本体に裏打がなされた時期には、本体から分離されていたのであろう。現在��合わせて別の一巻に仕立てられているのは、近衛家煕(〜一七三六)の手によると考えられる。現在��はもとの位置に戻して貼り継がれている。
B.日記記事の記入されていない具注暦を、記事のある部分から分離した個所。延文二年暦記の暦表紙の見返に「今年三月以来不記之、右大臣(花押)」とあり、実際記事は三月六日までしかない。ところで三月七日から六月までと七月から一二月までの具注暦は、一紙一紙断簡となって、現在、旧例部類記、信尋公記抄録、三藐院殿御鈔出、古今聴観の紙背に散在するので、これらを集めて復原をした。もっとも三月七日から始まる一紙の右肩だけに「延文二」という記入のあることから想像すると、分離された当初は、そのあとに続く分も未だ巻子状だったと思われ、一紙づつに解体されたのは、さらに後のことであろう。なおこの「延文二」の筆跡は、A.の銘と同筆であり、A.B.の変更が同時期の作業であったことをうかがわせる。
 このような伝来途上の変更の外に、これら暦記の形成過程を伺う手がかりもある。�延文元年三月二八日条には、「委細在別記」とありながら、その後に白紙に浄書された詳しい記事が貼り継がれている。それが「今日〜」という形で始まっているのは、もと年月日から書き出されていた別記を、すこし改変して浄書したのかもしれない。�延文三年三月二八日から三〇日条には、具注暦の間空きの部分を切除して、そのところに詳細記事のある継入紙を貼り継いでいる。ところが具注暦の切断部分に、天候記事などの墨痕が残っており、次の詳細記事との重複を無くすための措置であったことを思わせる。この継入紙も別記を浄書して作成したのではなかろうか。道嗣自身によるこれらの作業は、文和年間の別記を浄書してまとめたのとちょうど一対の作業であったと考えられる。
 後深心院関白記の暦記の特徴は、継入されているのが、主に朝儀等の詳細な別記風の記事ばかりであって、原文書などの張り継ぎはほとんどないこと、またそれ以外の記事は、裏書にしばしば及ぶとはいえ、一般に簡略なことである。とはいえ、延文三年の光厳法皇・崇光上皇の京都への帰還や、足利尊氏の死没・仏事・贈位贈官などのリアルタイムの貴重な記録に富む。延文三年、道嗣は西谷(現在の御室川右岸の辺か)光明寺内の深心院法華堂の相論を裁決している。
 南北朝期の摂関家の様相を考える手がかりも多く、近衛家の年中行事は逐一記録される。大原野祭・春日祭・吉田祭について、「余奉幣、由祓也」という記載が頻出する。奉幣が出来ない時に由祓をした鎌倉時代と少し変化して、由祓の形をとって奉幣したという捉え方のようである。廷文三〜四年に、崇光上皇の御幸のために度々懸牛を用意したり、また天台座主入道尊道親王や尊胤法親王・勧修寺経顕などに牛一頭を贈ったりする興味深い記事が集中する。近衛家が春日社に寄進した摂津垂水牧の牧務たる春日神主の、死没による交替とかかわるのかもしれない。天文関係の記事も多い。これは毎回、権天文博士土御門泰尚からの情報によると考えられる。仏事の催し方はいろいろであるが、三福寺覚空上人の浄土仏事讃の聴聞などは、道嗣の浄土宗への関わりの深さを示し、虎関師錬の元亨釈書の入蔵を目指す動きに同調しているのは、臨済宗東福寺とのつながりを示す。
 道嗣は、自邸において歌会・詩歌会・作文会など、月例あるいは臨時に催し、禁裏の御会・詩歌御会にも参仕し、後光厳天皇に、百首和歌の詠進をした(一三四頁七行目と一二行目の「百種」は「百首」に訂正していただきたい)。延文四年に新千載和歌集が奏覧された。そのころ後光厳天皇は蹴鞠に熱中してしきりに道嗣を呼び出し、また道嗣から四書集成・詩人玉屑を借りたり、さらに自作の聯句の添削をさせるなど、道嗣と天皇の間が急速に親密になっているようである。
本冊の編纂について種々陽明文庫文庫長名和修氏のご協力ご教示に預かった。
(例言六頁、目次二頁、本文三八二頁、巻頭図版二葉、岩波書店発行)
担当者 菅原昭英

『東京大学史料編纂所報』第34号 p.30*-32