大日本史料第八編之三十七

本冊には、後土御門天皇の延徳二年(一四九〇)五月から同年七月までに関する史料を収めた。
この間最も特筆すべき事項は、足利義材への将軍宣下およびそれに伴う幕府の判始・評定始・沙汰始(七月五日条)である。将軍宣下は当初六月二十一日に行なわれるはずであったが、管領をつとめる細川政元が病気を称したことで延引された。このことは、義視・義材父子と政元との関係がすでに対立を孕んでいたことの表われであり、この後の義視・義材父子の幕政運営の困難なることを示唆するものである。収録史料のうち、宮内庁書陵部所蔵『鎌倉将軍以来宣下文書』は外記押小路家の旧蔵で、外記長案の系譜を引くものと考えられる。将軍や守護大名の任官叙位関係文書の正文および草案等を重ね、右端を紙捻で綴じており、黄紙の召名正文など注目すべき文書を含んでいる。陣儀において上卿を勤めた三条西実隆は、通常の日次記のほかに別記『将軍宣下記』を残したが、その原本は太平洋戦争で焼失したため、続群書類従完成会刊の印行本によった。本所儀および判始・評定始・沙汰始については、清元定の手になる『将軍宣下記』に詳しい。続群書類従所収の一本のほか、宮内庁書陵部・内閣文庫に写本があるが、すべて近世の写本で、誤写も少なくない。底本には宮内庁書陵部所蔵松岡本の一本(函号二〇九・三九一)を用いた。『立入文書』所収の松田長秀記もこれと併せ見るべきである。また、『押小路文書』所収の師富朝臣記は陣儀・本所儀ともに詳しい。このほかの史料も多く、義材の将軍宣下は、歴代将軍のそれのなかで最も関係史料の揃っているものとして注目されよう。
禁中関係の主要な事項としては、吉田兼倶による諸社談義および日本書紀進講(五月十七日条)、千句連歌(六月二十四日条)、春日社霊験絵巻の叡覧(七月二十日条)、後土御門天皇・田向重治の両吟連歌(七月二十四日条)などを収める。千句連歌については、『実隆公記』所載の三物のほか、名残の折を欠く第二百韻の懐紙、初折および句上を載せる第四百韻の抜書を収録し、両吟についても百韻全体を収録した。なお、延徳二年の禁裏における連歌で懐紙の現存しているのは、この両者だけである。官位の任叙では、義材の将軍宣下のほか、義視とともに美濃に下っていた四条隆量が上洛して権大納言に任ぜられたこと(五月十一日条)や、狂気に陥っていた神祇伯資氏王を罷め、その叔父白川忠富に替えたこと(六月三十日条)などが目を引く。
このころ、三条西実隆は二回にわたって伏見宮家所蔵の古筆等を借用・披見し、日記にその目録を記している(七月二十二日条)。実隆はついで伏見宮都高親王から権跡一巻を拝領したが、これは太平洋戦争前までは三条西家に所蔵されていた。『伝藤原行成筆蹟断簡』の書名で、実隆の同書に付した奥書を収録した。なお、この断簡については、太田晶二郎「「群書治要」の残簡」(『同著作集』第一冊〔吉川弘文館、一九九一年八月〕所収、初出は一九五一年三月)が写真を掲載し、その本文の『群書治要』なることを明らかにしている。
幕府関係の事項では、等持寺八講(六月二十四日条)、殿中申次の設置(六月是月条)、義視第二子維山周嘉の慈照院(のちの慈照寺)における出家(七月四日条)などがある。また、義材の将軍襲職にともない、各所から幕府への訴訟の提起が現われはじめており(七月是月条)、義視・義材父子の政務決裁は、八月二十八日の沙汰始・判始以後に本格化することとなる。
神社・仏寺関係の事項では、鹿苑院塔主の交替(五月十二日条)、興福寺大乗院尋尊・政覚師弟が、禅定院北方鬼薗山の上に春日社を勧請して今宮を造営したこと(六月二十一日条)、等持寺仏殿の立柱上棟(同前)、相国寺住持の交替(七月十六日条)、本願寺兼寿(蓮如)の香衣勅許(七月二十三日条)などがある。今宮造営については、『大乗院寺社雑事記』・『政党大僧正記』とともに、尋尊の筆録『合力鈔引付』を錯簡を正したうえで収録した。
薨卒および伝記記事は、丹波重長(五月八日条)、武者小路資世(六月十二日条)、武田国信(六月二十一日条)、持明院基保(七月十三日条)の四人についてこれを収めた。丹波重長は、半井明茂とともにこの時期の代表的な官医であった。その著と伝えるものに『周監方』があり、『新撰菟玖波集』に一句が入集。武者小路資世は、当人に特筆すべき事蹟はないが、日野流の一員として幕府に近く、妹には義政・義尚の上臈、および堀越公方政知室として香厳院清晃(のちの将軍義澄)を所生した女性がいる。また、摂関家の家礼として精勤し、子息縁光とともに『後法興院政家記』に頻出する。武田国信は、一色義貫を討って足利義教から若狭守護職を与えられた信栄の弟で、そのあとを継いだ次兄信賢から譲られて同国守護となった。謹直な人柄と、多くの文人との交際から窺える豊かな教養とを有した、温厚な人物だったようである。持明院基保は、系図類にその名が見えず、父の名も確認できない。徳大寺家の諸大夫としての活動が知られる。
(目次一〇頁、本文四四六頁、挿入図版二葉)
担当者 今泉淑夫・末柄豊

『東京大学史料編纂所報』第33号 p.24*-25