大日本史料第二編之二十六

本冊には、後一条天皇の万寿四年(一〇二七)十二月から、万寿年中雑載までの史料が収めてある。
 この間の主な事柄としては、入道前太政大臣藤原道長薨去後の諸事があげられる。道長の薨奏が行われた十二月七日には、固関・警固が行われ、後一条天皇は御錫紵を著している(同日の第一条、二五〇頁以下)。同日夜、道長の遺体は鳥辺野に葬送され、木幡に埋葬された(同日の第二条、二五五頁以下)。この葬送以前に道長弔喪のために法成寺を訪れた藤原公季は、生前にその病を訪うことの無かったことにより藤原頼通の忌避に遭っている。後一条天皇は十日には御錫紵を除き(同日の条、二六六頁)、十六日には解陣・開関が行われた(同日の第一条、二七一頁以下)。二十八日に至り復任除目が行われ、頼通以下の道長男等が復任している(同日の第二条、二八四頁以下)。この間、道長の薨去により停められた神事に、月次祭・神今食(十二月十一日の条、二六六頁以下)及び大神祭(同月十三日の条、二六八頁以下)があり、仏事に季御読経がある(同月十六日の第二条、二七二頁以下)。さらに、二十八日には明年正月の朝賀并に諸節会が停められている(同日の第一条二七九頁以下)。また、道長のための仏事としては、法成寺阿弥陀堂に於ける頼通による法華経供養(十二月十六日の第三条、二七四頁)、同三七日法会(同月二十四日の第一条、二七六頁以下)、上東門院藤原彰子による法成寺に於ける仏事(同月二十八日の第四条、二八六頁以下)などがある。
 本冊に於て、その事蹟を集録した者は、権大納言兼按察使藤原行成(十二月四日の条、一頁以下)・藤原貞光(年末雑載、社会の条、二九六頁以下)・賀茂社禰宜賀茂茂忠(同上、二九九頁以下)・講仙(万寿年中雑載、宗教の条、三三六頁以下)などである。行成の薨去は頓死であり、道長の薨去からわずか十八時間あまり経過した四日亥時であったが、その後の薨奏や遺物の処理に際しての頼通の対応には興味深いものがある。頼通は、道長の薨奏に際し、先例に従い行成の薨奏をも行おうとした清原頼隆を勘当に処し、また、源経頼に命じて、行成の遺物中より行成自筆九条殿御暦日記二十八巻を始めとして、貞信公御消息十五巻、忠仁公・昭宣公・時平大閤等御消息などを択び出し、その手元に届けさせている。行成は有能な実務官僚として四納言に、また能書家として三蹟に数えられるが、本冊にはその事蹟に関わる各種の史料を類聚してある。
(目次四頁、本文三四〇頁、原色挿入図版一葉)
担当者 加藤友康・厚谷和雄

『東京大学史料編纂所報』第33号 p.23