大日本古文書 家わけ第十九 醍醐寺文書之十一

本冊には、醍醐寺文書の第十五函五六号から一二六号まで、及び第十六函一号から八〇号までを、整理番号の順に収めた。本冊における文書番号は、第二三七〇号から第二五四九号までである。なお、第十六函は未了であり、次冊に続くものである。
収録文書の年代は、治安三年(一〇二三)七月十八日藤原道長御教書案(第二三七四号文書)がもっとも古く、天保五年(一八三四)三月日東寺西院舞楽曼荼羅供請定(第二三八五号文書)が最新のものである。
内容は多岐にわたり要約することは困難であるが、第十六函の部分に理性院関係のものが目立つようである。
とりわけ注目されるのが、第二五四二号文書の厳助日記(断簡)である。理性院厳助は、松木宗綱の息で、永禄十年(一五六七)に七十四歳にて没している(『醍醐寺文書』八三函二三号など)。名は「げんじょ」と読んだようである(『大日本古文書醍醐寺文書之八』一八四四号)。現在のところ仏教史上ではさほど重要視される人物と言えないが、『厳助往年記』、『室町殿護摩日記』、『室町殿上醍醐御登山日記』、『厳助信州下向日記』等の記録によって、室町後期の貴重な史料を後世に残している。また、醍醐寺の聖教中にも多くの厳助書写本が見られる。
『厳助往年記』は、みずからの日記を抄出編集し、さらに幼少の時分の記事を追補したもので、『史籍集覧』に翻刻されているほか、『続群書類従』にも『厳助大僧正記』の名で収録されている。自筆本が国立歴史民俗博物館所蔵『田中穣氏旧蔵典籍古文書』の中に存する。この『厳助往年記』の基となった自筆日記の一部が、第二五四二号文書である。本文書は断簡四紙を張りついだものである。第一紙は永正十六年(一五一九)九月、第二紙は年未詳、第三紙は大永三年(一五二三)二月・三月、第四紙は大永三年正月・二月であり、各紙はすべて独立の断簡で、接続しない。第三紙は端裏書に「永正□□記」とあり、登場人物等より考えて永正十七年もしくは十八年のものかと推定されるが確定できない。この文書には紙背も存する。
その他に興味深い文書としては、弘安七年(一二八四)に亀山上皇の命により遍智院実勝が修した六字法の次第を報恩院憲淳が記した記録(第二五三八号文書)がある。この記録には、弘安七年の「毎月修法」の種類と大阿闍梨の名が記されているほか、請文案や巻数案が書き留められている。また、永仁二年(一二九四)六月日円楽寺政所書下案などの紙背文書も存している。円楽寺については不明だが、仁和寺院家のひとつであった円楽寺のこととすると、醍醐寺と仁和寺との関係をうかがう史料となろう。
(例言三頁、目次一八頁、本文三〇九頁、花押・印章一覧二丁、花押・印章掲載頁一覧表一丁)
主担者 高橋慎一朗

『東京大学史料編纂所報』第33号 p.28**-29