日本関係海外史料 イエズス会日本書翰集 訳文編之二(上)

本冊は、イエズス会日本書翰集JESUIT LETTERS CONCERNlNG JAPAN Original Texts Selection �, Volume �, January 12, 1553−December 15, 1555(自天文二十一年十二月至弘治元年十一月)の訳文編之二の上巻にあたり、一五五三年一月十二日より一五五四年十二月二十三日に至る書翰一六点、覚え書一点、イエズス会員名簿一点、イエズス会インド管区副管区長日本渡航携帯品目録一点の計一九点を収める。そのうち、ポルトガル語文は八点、スペイン語文は一一点である。
底本として、リスボン市アジュダ図書館所蔵の古写本「ジェズイータス・ナ・アジア」Jesuitas na Asia(同図書館の所蔵番号四九ノ四ノ四九号)からは二点(第八一、八二号文書)、一五九八年にポルトガルのエヴォラで出版された、所謂『エヴォラ版日本書翰集』(CARTAS QUE OS PADRES E IRMÃOS DA COMPANHIA DE JESUS ESCREVERÃO DOS REINOS DE JAPÃO & CHINA AOS DA MESMA COMPANHIA DA INDIA, & EUROPA, DESDO ANNO DE 1549 ATÉ O DE 1580, PRIMEIRO TOMO)からは四点(第七五、八〇、八二−A、八三号文書)、セラフィン・レイテ編纂の『ブラジル文書集』(MONUMENTA BRASILIANA)からは二点(第七二、七六号文書)、ヨゼフ・ヴィッキ編纂の『インド史料集』(DOCUMENTA INDICA)からは一一点(第六八、六九、七〇、七一、七三、七四、七七、七八、七九、八二−B、八四号文書)を採用した。
書翰及び覚え書の執筆者は計一〇名である。ガスパール・バルザエウスは、イグナティウス・デ・ロヨラ宛書翰一通(第六八号文書)においてザビエルのゴア帰還と中国への出発のこと、ローマ渡航予定の日本人(マテウス)の死について言及している。彼はまた、ポルトガル国王宛覚え書一通(第六九号文書)を執筆している。イグナティウス・デ・ロヨラのザビエル宛書翰一通(第七一号文書)は、ザビエルの中国渡航に理解を示しながらもポルトガルヘの帰還を命じた内容となっている。イグナシオ・デ・アゼヴェドのロヨラ宛書翰二通(第七二、七六号文書)は、ポルトガルに渡った山口出身のベルナルドの消息を伝える。ディオゴ・ロヨラ宛書翰二通(第七三、七四号文書)もまた、日本人ベルナルドのイエズス会入会とローマ行きについて報じている。ガスパール・ヴィレラのコインブラにあるイエズス会員宛書翰(第七五号文書)は、ゴアで得られた日本情報に関して日本人の特性と間引の風習に言及したうえで、自らの日本渡航についても報じている。アント二オ・デ・クアドロスのロヨラ宛書翰(第七八号文書)は、日本にいるイエズス会員へのポルトガル国王の援助について伝える。
インド管区副管区長メルシオール・ヌーネス・バレトは、口ヨラ宛(第七七号文書)と、ポルトガルのイエズス会員宛(第八〇号文書)の二書翰において、ザビエルの訃報とその遺骸のゴア帰着に関連して、彼が日本渡航を決意するに至った経緯、フェルナン・メンデス・ピントの回心と日本への同行、及びマラッカまでの渡航が述べられている。尚、ヌーネス・バレトの日本渡航携帯品目録(第八四号文書)からは、日本に将来された宗教書、宗教祭器具及び土産物の明細が知られる。フェルナン・メンデス・ピントは、ポルトガルにいるイエズス会員宛書翰(第八一号文書)において、自らの半生を語り、ザビエルとの出会い、その遺骸のゴア帰着を契機として自ら回心してイエズス会に入会し、ヌーネス・バレトに同行して日本行きを決意するに至ったことなどを明らかにし、商人として赴いたペグー(ビルマ)、アユタヤ(タイ)、日本で経験・見聞したことを報じている。

アイレス・ブランタンのポルトガルにいるイエズス会員宛書翰については、底本として古写本(第八二号文書)と刊本(第八二−A、八二−B号文書)を採用した。各文書の関係については、『東京大学史料編纂所報』第三一号二三頁を参照されたい。同書翰では、ザビエルの中国宣教の企てと彼の死、遺骸のゴア帰着までの経緯とゴア市における対応、イルマン・アルカソヴァの日本からゴアヘの到着、ヌーネス・バレトの日本渡航決意とその渡航準備、日本宣教に対する期待などが報じられている。ペドロ・デ・アルカソヴァのポルトガルにいるイエズス会員宛書翰(第八三号文書)は、彼が豊後滞在中に遭遇した府内における政治的混乱、府内と山口における宣教活動の推移、日本の民間宗教の状況を詳述している。

(例言五頁、目次三頁、本文、二七〇頁、定価六、六〇〇円)

担当者 五野井隆史・浅見雅一・大橋朋子

『東京大学史料編纂所報』第33号 p.31*-32