大日本史料第九編之二十一

本冊には、後柏原天皇大永三(一五二三)年十月より十二月末日まで、三箇月分と、大永三年是歳、および年末雑載(天文・災異、神社)を収める。
 十月十四日条には、三条西実隆による苧公事催促にかかわる史料を収めた。青苧は麻織物の原料で、越後をはじめ各地で生産された。この青苧を売買する青苧商人から徴収する苧公事は、三条西家の重要な収入源であった。実隆はその確保のために、細川高国のほか、越後の長尾為景・若狭の粟屋元隆に依頼し、流通ルートを押さえて圧力をかけ、公事銭納入の請文を得ることに成功している。十二月二十四日条に収めた、押小路師象による酒麹役催促にかかわる史料とあわせて、中世末期の、公家による収納確保運動の一端を知ることができる。
 十月二十四日条には、陶弘詮の伝記史料を収めた。弘詮の卒去を伝える確実な史料は、現在のところ見つからないが、今回は、系図等の記載にしたがって、この条に収めた。彼は、大内義興の重臣であるが、むしろ、いわゆる「吉川本吾妻鏡」の書写者として知られている。そこで、伝記史料の中に、彼の文化的活動を伝える書写奥書・歌会関係史料などもあわせて収めるようつとめた。印章は、よく知られている「弘詮」朱印以外に、瑠璃光寺所蔵「拈頌集」に捺された朱印三点を収めた。挿入図版には、「吉川本吾妻鏡」の識語と奥書との二点を選んだ。なお、「吉川本吾妻鏡」の所蔵を、調査採訪時点の「吉川重喜氏」としたが、現在は、平成七年に開館した吉川史料館の所蔵となっている旨、同館から御指摘いただいた。本文、図版・印章の注記ともに所蔵の記載を変更されたい。
 この他に、伝記史料としては、日向の伊東尹祐の戦死、祐充による家督継承の記事にあわせて、尹祐の伝記を、十一月八日条に収めた。従来、「前編旧記雑録」によっていたものも、「新編島津氏世録支流系図」などの原典にさかのぼるようつとめた。
 十二月十日条には、興福寺別当経尋の日記「経尋記」を中心に、維摩会の史料を収めた。経尋にとっては、別当として二度目の維摩会である。初めての経験だった昨年は、日記以外に「維摩会探題用意記」という詳細な記録を残している(大永二年十二月十六日条)。今年は、日記に膨大な記述があり(収録には約五十頁を要した)、両者を参照することによって、当時の維摩会をある程度具体的に復元することができる。また、同じく興福寺関係では、十一月二十七日条に、春日若宮祭の史科を収めた。
 是歳条には、外交に関する史料を収めた。対馬と朝鮮との通交関係は、三浦の乱後、永正九年の壬申約条によって縮小された。その直後から、対馬による権益回復の運動は行われていたが、本年にいたって、歳遣船の数を二十五隻から三十隻に増加することが認められた。「中宗大王実録」は、交渉にあたっての朝鮮側の対応を詳細に記している。また、琉球国王尚真による明への進貢および官生派遣に関する史料を収めた。挿入図版に選んだ「琉球国王尚真辞令書」は、この様式の文書としては現存最古のものである。
(目次一二貢、本文三三九頁、挿入図版三点)
担当者 桑山浩然・渡邉正男

『東京大学史料編纂所報』第32号 p.16*