大日本古文書 家わけ第十 東寺文書之十一

東寺文書では、現在京都府立総合資料館が所蔵している東寺百合文書を出版しているが、本冊よりそのうちの「よ函」に入った。前冊「わ函」との間に「か函」があるが、この文書収納函は現在空函になっている。史料編纂所所蔵の「明治十九年史料蒐集目録」十三には、「加之部」として「第壱号/一、仏事算用状 二拾四巻/第弐号/一、同 五拾七通」の記載がみえるが、上部の欄外に朱筆で「加之部見当ラス」との注記があり、影写を行うため(函から取り出して)編纂所に借用した明治末年の段階で、すでに他所へ移っていたものと思われる。今のところ、この「史料蒐集目録」より詳細な、当時の東寺百合文書関係の目録は存在していないので、その所在を特定することはできない。
 本冊の排列は年月日順に、長元八年(一〇三五)より応永三十四年(一四二七)までの文書を収載した。平安時代は東寺政所関係の文書、鎌倉時代は供僧方の料所である弓削島荘・平野殿荘の文書、のちに東寺領となった矢野荘の文書、御影堂に寄進された京都の地の手継券文、南北朝室町時代は、矢野荘文書および学衆の選任・評定・論義等に関する文書など学衆方の文書がその大部分を占めるが、また前代と同じく弓削島荘・京中京郊の地の手継、そのほか久世荘関係の文書などもみえる。
 ところで「よ函」には、史料編纂所の影写本にはあるが、総合資料館の原本の中にはない文書が九通ある。本冊にはそのうちの八通を収録したが、いずれも起請文である(内二通はそれに付けて注進された損亡耕地の内検帳・注進状)。「よ函」の影写本には、起請文の料紙について、朱筆で「原紙牛玉(王)」としか注記されていないので、これらの文書の料紙牛玉宝印の種類については、相田二郎氏「起請文の料紙牛王宝印について」(『史学雑誌』51−4〜7 一九四〇年、のち『相田二郎著作集1 日本古文書学の諸問題』に収録 名著出版 一九七六年)を参照した。それによると、二五(一)・二六(一)・一〇〇・一〇三号の牛玉宝印は、「熊野山宝印」と版刻して摺ったもので、二五が熊野新宮、その他は本宮のものであるとされている。相田氏の熊野三山牛玉宝印の分類は、採集した熊野牛玉をすべて紀伊の熊野三山のものとして編年に排列し、その図様の類似と相違、そして変化を追うという方法によっているが、しかしながら熊野牛玉は同じような図様で、中世・近世を通じて、全国各地の熊野神社から発行されていたことがわかっているから、この方法では不十分であることになる。また、仮に紀伊熊野の牛玉宝印の残存が多いものとしてみても、たとえば新宮の図様に特徴的な「熊」の字の中程のふたつの矩形がはっきりしてくるのは一六世紀からであることなど、同じ「熊野山宝印」の文字を摺った本宮と新宮の図様の特徴が顕かになるのは、本冊に収録した牛玉宝印の時期をずっと下るものである。以上のことから、起請文料紙についての按文では、相田氏の分類を参照しながらも、その種類についての断定を避けている(図録『牛玉宝印』参照 町田市立博物館 一九九一年)。そしてもうひとつ、相田氏によれば、一三六号の起請文料紙に、百合文書「し函」延文五年三月八日若狭太良荘公文禅勝・合定(綱丁)西向連署起請文と同じ筆書の「八幡新宮寺牛玉宝印」が用いられているとされているが、「し函」のこの文書の影写には(し一二乙〜一三、この原本も現在所在不明)、「八幡新神宮寺牛玉宝印」の文字がみえる。おそらく新宮寺は新神宮寺の誤りであろう(黒川直則「東寺の起請文と牛玉宝印」三の註�参照 『資料館紀要』8 一九八○年)。
 次にいくつかの文書について、気づいた点を述べておく。最初に、四〇号文書は、元矢野荘公文代官であった道印の申詞注文であるが、まず道印に実正を誓った起請文を書かせた上で、この年(貞治四)の学衆方奉行実成が聴取し執筆したものであることが、学衆方評定引付(ム函四一号)の記事および筆跡からわかる。
 五三号文書は、応安元年十月から同四年七月までの弓削島荘から東寺への年貢送状八通を継いだものである。これらの送状は、応安の大法を適用された後の東寺の当知行の支証として、幕府における領家職回復の訴訟を有利に運ぶため、現地の武士小早川氏と結んで偽造されたものである。詳しくは村井章介・網野善彦両氏によって指摘されているので参照されたい(村井「徳政としての応安半済令」『中世日本の諸相』下 吉川弘文館 一九八九年、網野「中世における文書偽造の一事例」『瀬戸内海地域史研究』第一輯 文献出版 一九八七年)。ただ、原本観察によれば、八通のうち(二)応安四年四月十六日付の送状のみ、料紙の紙質・花押形状が他の七通とは明らかに異なっており、端裏書もある。またこれら送状の写しが存在しているが(ノ函五一号)、そこでは、この(二)の送状にのみ合点が懸けられ、また差出が「沙弥浄恵」となっているのに対して、他の差出人はすべて「御代官」となっている。そうすると、送状八通全部が応安四年のある一時点における偽造というわけではなく、(二)については、実際の年貢送付に伴った正文とみることができるだろう。弓削島荘は、同年三月に細川頼之によって河野久枝氏に契約料所として充行われており(ヨ函一二一号)、(二)の四月の送状は、当時弓削島荘を請け負いながら年貢の滞納を続けていた小早川氏が、知行に対する危機意識から、荘園領主東寺に何らかのはたらきかけをしてきた最初の徴証と考えることができるのではないだろうか。そのようなはたらきかけの結果が、東寺と小早川氏による新たな年貢請け負い額の契約であり(つ函一(九)号)、先の当知行の支証としての送状の偽造ということであろう。なお、これら継文の最初の端裏にみえる「東寺雑掌所進」の記載は、幕府担当奉行の記した端裏銘である。
 端裏銘で注目すべきは、五〇・五二号文書である。これは応安三年、播磨矢野荘例名真蔵名の領知をめぐって、東寺と別名田所の一族と思われる小河氏が守護のもとで行なった相論に関する守護使節請文と小河顕長申状である。両方の端裏書の筆跡は一致しており、守護の書下等が残っていないので確認することはできないが、おそらく守護方担当奉行人の手跡であると思われる。銘の日付は守護の何らかの裁許が出された日であろう。守護に対する申状の端裏銘については上島有氏が言及しているが、この文書は、守護の訴訟・遵行制度を考えるひとつの素材になるだろう(上島「端裏銘について」『摂南大学学術研究紀要B』2 一九八四年、同『東寺文書聚英』四六一号文書解説 同朋舎出版 一九八五年)。
 一三七号は、応永三十一年正月から同三十三年十月に至る間の、東寺鎮守八幡宮毎月十五日論義の役者の請定とその裏に書かれた着到の集成である。年始の部分に書かれた整理のための年紀から判断すると、着到の方を表にして、年月日順に後ろへ貼り継いで整理したものである。そして論義講問が行われた後、請定の方に、出題された問を参考のために記したものと考えられるが、ここから論義そのものの内容がわかる。さらに学衆方論義の運営の仕方については、今後論義法式などを参照しながら検討が必要である。なお、この問答講は、応長二年、東寺に学衆が置かれた当初から行われ、式日が毎月十五日に定まったのは正和四年のことである(「東宝記」)。本文書については、永村眞氏のご教示を得た。
 最後に、現在までに判明している翻刻の誤りをあげ、利用に際しての訂正をお願いする。

『東京大学史料編纂所報』第32号 p.21*-22