大日本古文書 幕末外国関係文書巻之四十六

本冊には、万延元年十二月十四日(一八六一年一月二十四日)から同年十二月晦日(同年二月九日)までを収めた。
 本冊の対象とする期間では、ヒュースケン暗殺後の英・仏・蘭の各外交代表部の横浜への退去の問題が最も大きな外交課題である。この問題の概略を述べれば、既に巻之四十五で収録された五ヵ国代表部の会合の結果、英・仏・蘭の各代表部は江戸退去を実行し、十二月十六日一斉に幕府宛ての抗議書翰を発信した(英は十五号、仏は十六号、蘭は十九号、プロシャの抗議書翰は十七号)。これら書翰はいずれも長文かつ難解であり、翻訳も相当手間取ったようで、収録した和解からも判るように、幕府が正確な理解をしたとは到底思えない。利用者の便宜のために書翰原文をも併せて収録した。具体的な退去の様子は、英・仏・蘭代表の本国宛報告(二二、二七、四二号)を参照されたい。幕府とこれら公使との交渉は、公使側がかなり厳格な条件(委任状や抗議書翰への回答)を求めたため(三二号、七三号付収文書)、ほとんど没交渉となっている。
 そのため、幕府は抗議書翰の解説をも含め、江戸にとどまった米国(公使ハリス)との交渉を重ねて退去の真意を探ろうとしている(二〇、五九、七四号)。こうして抗議書翰への返答が出来上がったのが暮れも押しつまった二十九日であった(八五、八六号)。
 この江戸退去に際しては、オールコックが神奈川領事に命じた貿易改善のための居留民の意向調査(六五号付収文書)に注意したい。彼はこの抗議退去にあわせて貿易改善の施策を幕府から引き出そうとしていたのである。この命令により開かれた居留民会議の関係文書は、当時の横浜の状況を物語る史料として興味深い(八三、一〇〇号)。
 ヒュースケン暗殺とそれに続く江戸退去といういわば突発的な事態に対応する外交交渉とは別に、本冊の対象とする期間において、先に幕府が提起した開市開港延期問題での進展が、江戸に残った米国公使との間に見られることも、注意しておくべきであろう(四九、六〇、七四号)。また、仏国外務省の同問題での基本的な方針を物語る指令を収めた(二五号)。
 本冊は、万延元年の最終冊に当り、年末に関わっていくつかの文書を収録した。一つは褒賞文書であり(五五、九〇、九一、九六号)、江戸・長崎での外交・海軍整備に関係した人物を一覧できよう。また、年末二十九日に長崎奉行は取りまとめていくつかの案件についての長文の伺書・問合書を提出した(九二、九三、九四、九五、一〇四、一〇五号)。これらは条約締結に伴なう旧体制から新体制への転換の様々な局面を物語っているが、ここでは文書の存在を指摘するに留める。更にまた、対プロシャ条約の締結(一、二号)・長崎地所規則(三号)・遣米使節(一四、五四、六四、七〇、七一、一一二、一二二、一一六、一一七、一一八号)・タイノス号難破(三九、七六、八一)など、事態の最終局面を記す文書も収めた。
 なお、今後も引き継がれるものは、水路測量(八八、八九号)や水先案内(九七、九九、一〇二号)などの間題である。居留民(三八号)や外交代表部は一貫して軍艦の来航を要請しており、また、外国貿易の発展には外国船の国内航路の掌握が必要であったから、この問題は六一年以降重要な外交問題となる。このような動きの中で、長崎にロシア艦船が来航してきたことも見逃せない(九八号)。また、長崎・箱館における関税(四六、五一、一〇四、一〇五号)・輸出許可(三六、六八、七五号)のトラブルも続いている。
(例言二頁、目次三〇頁、本文五二七頁、索引一七頁、本体価格一〇、四〇〇円)
担当者 横山伊徳・保谷徹・小野将

『東京大学史料編纂所報』第32号 p.20*-21