大日本古記録 斎藤月岑日記 一

斎藤月岑(さいとう・げっしん。一八〇四〜七八)は、江戸時代後期から明治時代初期にかけての江戸・東京の町人。通称は市左衛門、諱は幸成、月岑は著述等の際に用いた号である。斎藤家は江戸の古町(こちょう)名主の家柄で、月岑も文政元年(一八一八)町名主を襲職し、居住町である神田雉子町のほか、三河町三丁目・同裏町・四丁目・同裏町・四軒町の町名主をつとめた。一方で彼は江戸およびその周辺の名所・祭礼・年中行事等に詳しく、江戸の地誌や風俗に関する「江戸名所図会」(天保五年・七年刊)、「東都歳事記」(天保九年刊)、「武江年表」(正編嘉永三年刊。続編は明治十一年一月に脱稿したが同年三月月岑の死去により生前は刊行されなかった)や音楽書「声曲類纂」(弘化四年刊)など、数々の書物を著した文化人としての活動がよく知られている。
月岑には文政十三年(=天保元年・一八三〇)から明治八年(一八七五)まで四六年間にわたる日記が残されている。その自筆原本は臨時編年史編纂掛(明治二十一年十一月〜二十四年三月)が購入し、現在史料編纂所の所蔵になっている。
この日記には、毎日の天候、名主としての公務、本人および家族の行動、そしてまた開帳・火事・地震など「武江年表」の材料となるような事柄が記されている。
全体に備忘録的性格が強く、おおむね各記事は簡潔であるが、幕末から明治初期にかけての江戸・東京を、公私両方の目を通して見ることのできる、貴重な史料である。なお、天保元年・同二年の冊のみが二年分で一冊になっていて、書き出しの部分の体裁なども他の冊とやや異なることから、この日記のつけ始めはおそらく天保元年正月元日であり、また日記の終了は、明治八年十二月三十一日と考えられる(この年、七二歳の月岑は戸長職を辞しており、「武江年表」続編の「附言」を見るに、おそらく翌年には出仕も罷めたであろう)。天保三年、五年、八年、十三年、嘉永五年、六年、明治四年〜六年の計九年分は欠けており、現存するのは三六冊三七年分である。
他に月岑の日記とされる史料には、早稲田大学図書館所蔵「〓巣日記」(自筆、一冊。明治元年正月元日〜同年十一月)、国立国会図書館所蔵「慶応四年明治五年日記」(一冊。明治元年と同五年の記録)、大東急記念文庫所蔵「月岑日記」(自筆、一冊。明治三年十二月廿二日〜四年十一月十八日)、近世文芸叢書第一二所収「月岑日記」(自筆、一冊。明治四年正月〜同年十一月)などがある。これらは、「〓巣日記」解題(『早稲田大学図書館紀要』一七号)で柴田光彦氏が指摘しているように、史料本「日記」には書ききれないような記事を収めた別録、もしくは「日記」を始めとする材料から「武江年表」を編纂していく中間段階の整理に属するもので、史料本と直接の写本関係にあるものはない。
活字化としてはこれまで、森銑三氏による『斎藤月岑日記鈔』(汲古書院)や、西山松之助氏による「斎藤月岑日記抄録」(『東京教育大学文学部紀要』七一号)・「斎藤月岑日記の明治」(『史潮』一〇六号)などの抄録があったが、全文翻刻は今回が初めてで、全一〇冊を予定している。校訂に際しては、「江戸名所図会」「東都歳事記」「武江年表」「町鑑」「武鑑」「江戸切絵図」「柳営補任」「藤岡屋日記」「江戸名所独案内」『江戸幕臣人名事典』『近世人名録集成』等の史料、および各種事典類を参照して本文の理解を補助するような注記につとめた。しかし、日記と参照史料の年次は必ずしも同一にはできなかった。
本冊には、天保元年・二年・四年・六年の四年分を収めた。天保元年に月岑は二七歳、一五歳で家督を継ぎ町名主となってから、すでに一〇年余が経過した時期である。まずこの間の大きな出来事としては、祖父幸雄、父幸孝以来の事業であった「江戸名所図会」の刊行がある。前編については、次の記事がある。

『東京大学史料編纂所報』第32号 p.24*-26