大日本近世史料 広橋兼胤公武御用日記四

本冊には、宝暦三年(一七五三)正月より四年六月までの、「関東下向之日記」「公武御用日記」を収めた。この間、三年七月六日より二十四日までは浮腫を患うにより、また九月十日より十月十二日までは所労により、参内はせず日記の記載も欠いている。
 桃園天皇は時に十三才にて、一条道香が摂政として補佐した。新儀の事項は主上御成長まで結論を保留するというのが基本方針として執られているが、四年になると、来春を以て摂政復辟のことが話題となる。
 内容は多岐に亘るが、朝幕関係では文芸方面で二つの特筆すべきことがあった。二年十一月に将軍家重より所望があった詩歌作進のことがあり、将軍満悦により褒美として縮緬五十巻・塩鮭三尺が十一人に下されたことである。三年三月二十五日、武家伝奏が京都所司代に赴きこれを受領している。これは元文四年(一七三九)将軍吉宗が中院通躬等五人の公家衆に名所和歌の詠進を所望し、褒詞を寄せ公家衆の家業奨励の一助としたことに倣ったもので、この度は詩歌の所望であった。いま一つは、桜町上皇より関東へ所望していた書籍の書写が出来し、幕府より進献されたことである。これは享保十五年(一七三〇)に『礼儀類典』が進献されて以来のことで、『日本紀略』『弘安格式』『延喜儀式』(以上玉筥納一合)、『諸記抄出』(三筥納一合)が、八月三日に進献あり、御学問所にて摂政・議奏・両伝奏の立合いのもとに開封され電覧の上、叡覧に供されている。
 叙任に関しては、僧侶の官位ならびに医師町人受領等の出願手続きが固定化し(六月一日条)、まず武辺へ届け禁裏へ出願することとされた。これまで武辺の吟味がなかった僧侶官位も、まず町奉行所に届けを要することとなったのである。四年二月十四日に興正寺常勤が大僧正に昇進する際、西本願寺が武辺に申届けをしていないとしてこれに抗議したのも、このことを楯にとってのものであった。しかし、その後本願寺自身が同じ理由を糺されることになる。祖師親鴛の大師号の願いを表向きに願いたい旨を武家伝奏へ聞合せて来たとき、武家への願いのことが問題にされている(六月四日条)。また僧侶の贈号としては、四年三月に東大寺大勧進職俊乗坊重源に菩薩号、東大寺大仏殿再建に尽くした公慶に贈僧正の願いが、勧修寺宮を通して東大寺龍松院より出されている(三月二十日条)。これは重源五百五十年忌に当たっての願いで、願いは両三度に及んだが、その度に差戻されている(四月二十五日、五月十七日条)。武家官位は、年末の定期叙任で、小笠原忠總の叙従四位以下、津軽信寧等三十三人の叙爵諸大夫成があった。これは四年正月二十八日に披露がなされているが、この朝廷における処理は、「右、被 聞食、如例可令沙汰被 仰出之由、中山大納言被示了、」というもので、議奏中山栄親より勅許があったことが告げられ叙任文書の作成が沙汰されている。これまでの研究では、武家官位は実質的には将軍により任命され、朝廷ではたんに口宣案等の叙任文書の作成がなされていたに過ぎないことが強調されているが、武家官位もまた勅許の対象であったことに改めて注目しておきたい。また、前田重靖の任加賀守の御礼に使者が参内のこと(七月二十七日条)、佐竹義局が従四位下・侍従に叙任されるが、もと無位・無官とあり(四年正月十六日条)、次第の昇進ではなく一挙に上位の官位に叙任されることもあったことにも注目しておきたい。
 公家衆の問題としては、三十石三人扶持の小禄公家衆(二十七家)の家領拝領願い、或いは金子拝領願いが提出され続け、却下し続けられたことを特記しておきたい。小禄公家衆とは、後水尾院の時に家が成立した東久世等十二人、後西院以来の成立の沢等十五人で、近年の米穀下値により勤番もし難い程に困窮していたようである(十月十九日条)。各組が連署して出願したが、家領はもちろん拝借金すら容易なことでなかったが、京都所司代酒井忠用は、困窮一通りの願いにては、借金は成り難いとし、所司代心得を以て一人に銀十校充を貸与する処置をとっている(十二月二十八日条)。事件としては、番所における不行跡を関東へ漏洩したことを咎められ、旧冬近習を除かれていた清水谷家季の処置が議されていたが、相変わらず多言不慎でもはや宥恕の節なしとされ(三月二十二日条)、蟄居が申渡され(五月一日条)、息公実は遠慮、兄弟の押小路従季等は自分差控を命ぜられている(五月十四日条)。また、持明院宗時は軽服中に内侍所を経て参番した咎で、近習を除かれ遠慮を申渡された(四月二十四日条)。桑原長親は臥しながら悪口狼藉を働いたとし、その家来重野右兵衛を手討ちにし(五月四日条)、吟味の結果堂上の身分にあるまじきこととされ謹慎の処置がとられている。その他、いくつかの世間の奇妙な事件があった。「南宮左中将」と称する曲者が歌枕の御用と称して木曾路を通行、美濃大柿宿の本陣に止宿して問題になっている。菊桐のかさね紋を付した黒羽二重の小袖を着用していた(四月五日条)。のち若狭路を通行中に捕らえられたという(四月二十七日条)。また大和初瀬にては、霊元天皇勅方と銘打ち菊の朱印を捺した包みに入れた「勅方消暑丸」なる丸薬が売り出されるということがあった(五月二十九日条)。これを調合したのは、五条中納言為範の舎弟で、大覚寺門跡の院家で権僧正にまでなった弁応なるものであり、五条家では義絶した者にてなんの差構えもなしとしながら、実弟でもあるので、五条家で吟味したいとしている。その他、数年に及んだ賀茂相論が決着し、四年五月十九日に社家へ申渡のこともあった。
(例言一頁、目次二頁、本文三五六頁)
担当者 橋本政宣・馬場章

『東京大学史料編纂所報』第32号 p.18*-19