日本関係海外史料 オランダ商館長日記 訳文編之八 (下)

本冊は、原文編之八に収載したヤン・ファン・エルセラックの日記のうち、一六四四年八月一日以降、エルセラックがカペレ号で日本を離れる同年十一月二十四日までの記事、及び附録の六 トンキンヘ赴くアント二イ・ファン・ブルックホルスト充ての訓令書、七 後任商館長ピーテル・アントニッセン・オーフルトワーテルヘの長崎商館資産引継目録、八 同人充ての職務権限委譲書、九 同人充ての訓令書、十 オランダ東インド会社本社重役充ての履歴に関する報告書を全文翻訳したものである。収載史料の書誌的解説については『所報』二八号七九〜八○頁を参照されたい。
 この年長崎に到着したオランダ船は、以下の六隻であった。まず、八月一日にカストリクム号が、バタフィアからタイオワン経由で到着した。江戸に囚われているポルトガル人宣教師の証言から、オランダ船で宣教師が潜入することも有り得ると判断した幕府は、前年より厳しい検査を行った。その後、後続の船がなかなか現れず、八月三十日になってシャムからのズワーン号が着いた。同船は、薩摩近辺の小島で給水のためボートを降ろした際住民との間に行き違いを生じ、乗組員一名が捕われていたが、その後、彼は薩摩から無事送還された。同日ズワルテン・ベール号が後任商館長オーフルトワーテルを乗せてタイオワンから、九月一日にザイエル号がトンキンから到着、九月八日パンカドが決定し、取り引きが始まった。ところがその後九月十七日にリロ号がタイオワンから到着し、それより先にタイオワンを出たカペレ号は十月六日にようやく姿を現したのだった。ザイエル号までの四船は十月中に帰帆したものの、オランダ船による追跡・拿捕を恐れるジャンク船船頭等の嘆願のためか、リロ号の出帆はなかなか許されなかった。十一月四日にようやく許可を得て翌日リロ号を出帆させたエルセラックは、オーフルトワーテルに後事を託し、十一月二十三日カペレ号で長崎を後にした。
 その間、マカオからジャンク船が到着し、八名の中国人がキリスト教徒であることが発覚、厳しい吟味が始まった。江戸からこの事件を担当するため大目付井上政重の用人が派遣された。商館長はここぞとばかり、中国、殊に一官の配下にはキリスト教徒が多数おり、中国人との貿易を続ける限りキリスト教徒の潜入を防ぐことはできないと日本側を焚き付け、オランダ人の立場の強化を図ろうとしている。
 奉行馬場三郎左衛門は二度にわたって「もしオランダ人がマカオ・マ二ラその他の地を攻撃するならば…」と謎をかけているが、その真意はオランダ人もはかりかねている。さらに、臼砲の技術者の派遣が再三要請されたが、それは一六四一年に臼砲が献上されて以来、初めてのことであった。
 附録のうち、六は、一六四四年十月二十二日フライト船ヨンゲ・ザイエル号でタイオワンヘ出発し、同地で船を換えてトンキンヘ向かうブルックホルストに対し、国王一族への対応、日本向け主力商品である生糸の仕入れなどについて指示を与えたものである。訳文編之八(上)附録の総督書翰にも指摘されるように、鄭氏の活動によりタイオワンにおける仕入れが減少する中、トンキン生糸の重要性は増していた。
 七の資産引継目録は、商品・現金・債権とともに、商館に保管された帳簿・書類を列挙しており、興味深い。七同様八、九も商館長の引継に際して作成されたものである。オーフルトワーテルは既に、一六四二年十月から日本商館長として一度勤務しているが、日本滞在十年を誇るエルセラックにしてみれば、伝えたいことがいろいろあったのであろう。九には大目付井上政重、両長崎奉行及び通詞たちの人物評や日本勤務の心得など彼ならではの経験に基づく内容が盛り込まれている。
 十は、バタフィアから本国への帰国船中でエルセラックが認めたもの。エルセラックの目から見たこの十年の日本商館をめぐる動向を語るが、作成の動機はおそらく会社における処遇問題と推測される。
 なお、巻末に訳文編之八(上)(下)全体の索引を付した。
 本冊の翻訳には、ルドルフ・バホフネル氏、レイニアー・H・ヘスリンク氏、イサベル・田中・ファン・ダーレン氏から助言を受けた。編集・校正については非常勤職員石田千尋・大橋明子・堀越桃子・行武和博の各氏の協力を得た。
(例言六頁、目次二頁、本文一八八頁、索引二四頁)
担当者 松井洋子・松方冬子

『東京大学史料編纂所報』第32号 p.22*-23