大日本古文書 蜷川家文書之六

本冊には前冊に引き続き附録として、国立公文書館内閣文庫所蔵蜷川家文書第四集・第二十六集の和歌懐紙類、および第二集・十七集・二十集・二十五集・二十七集・二十八集・二十九集の、これまで収載していなかった諸史料を収めた。以上を以て、内閣文庫に「古文書集」の名で所蔵されている、蜷川家文書二十七冊二軸すべての翻刻出版を終えた。なお巻末には、原本との対照の便宜のため、現在原本が架蔵されている形である冊次順に文書目録を掲げた。これは大日本古文書が文書については編年で収め、有職故実書・和歌懐紙類は付録として後にまとめて収載する方針をとったためである。
 次にいくつかの史料について若干の説明を加える。
 最初に収めた和歌・連歌懐紙および歌書類は、蜷川親孝・親俊・親長の手になるものが多く、蜷川家歴代当主が親当・親元親子の後にも、和歌・連歌に通じていたことを示している。このうち附録九七号拾烈集は、続群書類従所収本とは若干の異同がある。また附録一〇八号拾遺愚草は正編中巻の一部で、『新編国歌大観』(第三巻私家集編Ⅰ)の歌番号で一八八三~二〇〇七の部分にあたるが、『国歌大観』底本とは若干の異同があるようである。断簡である附録一〇〇号も、間に四首の欠落があるが、この前の部分に相当する。なお断簡であるなどの理由から、書名等についてさらに検討の必要なものがある。また紙背にあるものなど若干の和歌懐紙類は編年文書の部分にも収めたので、併せて参照いただきたい。
 次に附録一〇九号~一一七号は、言葉や和歌などの覚書、辞書の抜書、習書等からなるまさに雑記である。これらは平家物語を書写した際の反故紙を、紙背を表にした折紙として横帳に仕立て再利用したものらしく、附録一一〇号に「聞書色々 文亀二」とあるのが表題にあたるとも考えられる。もしそうだとすれば、文亀年間は親孝の代にあたり、前冊に収めた附録七八号と同様な性格を持つ史料といえよう。雑記のなかには、文書に頻繁に用いられる言い回し等が列挙されている部分もあり、政所代として文書の起草にあたる蜷川氏の手控えとしてこれらの雑記が書かれた事を推測できる。おそらくこのようなメモから、次第に整った故実書が作られていくのであろうが、この雑記自体、かなで付された読みは一種の古辞書としての意味を持ち貴重である。
 附録一二〇号は末尾に「根本世鏡抄」とあるが、続群書類従所収の「世鏡抄」などには同様の部分をみつけることができず、出典についてはさらに究明する必要があろう。
 附録一三六号~一四二号は河童に関する聞書類を集めたものである。江戸時代の中期以降、知識人の間で一種の博物学と称してもよいような嗜好が顕著となってくるが、河童といった空想上の動物に対する関心とそれに関する書物の流布も、そのような嗜好の一環として理解できよう。その担い手の一人として、蜷川氏といった旗本層がいたことを示している点で、これらの史料は興味深い。四冊目に収載した考古学的遺物に対する関心を示す史料(九〇〇号~九〇三号)とともに、近世知識人のあり方を考える際の一つの素材となろう。なお、中村禎里『河童の日本史』(日本エディタースクール出版部、一九九六年)には、近世の諸史料に登場する河童図像の系統的研究や、河童文献の書誌的研究が収められており、本冊収載史料の性格を知る上で参考になる。
 附録一四三号は、梵字がかなりの部分を占めるため写真掲載とし、附録一四六号も、竹尺本体の表裏の写真を掲げた。この竹尺は厳密には文書とはいえないが、第二九冊はこの一点のみで、表紙内側に貼り付けられた袋にはいっている。蜷川家文書第一冊の刊行から十四年、準備期間も含めると二十年近くという長期にわたって、文書の借用などにおいて格別のご配慮を賜った国立公文書館内閣文庫に対し、厚く感謝の意を表する。
(例言四頁、目次六頁、本文一八七頁、冊次順総目次一一〇頁、定価五一五〇円)
担当者久留島典子

『東京大学史料編纂所報』第31号 p.20*