大日本古記録 深心院関白記

本書は、藤原(近衛)基平(一二四六〜一二六八)の日記である。基平は、藤原(近衛)兼経を父とし、藤原(九条)道家の女仁子を母として摂関家に生まれ、建長六年(一二五四)に元服した。父兼経が、正元元年(一二五九)に没したが、早くも文永四年(一二六七)一二月九日、二二歳で関白・氏長者となったのもつかのま、翌五年一一月一九日二三歳で病没した。短命ではあったが、和歌では深心院関白集という家集(全六七首)が伝わる。日記は深心院関白記(他に深心院基平公記・深心院殿記とも)という。深心院は基平の没後の号である。なおこの号は浄土宗の教理に基づくものであると思われ、そうであれば、「じんしんいん」と読む方がよいであろう。
 今日に伝わる深心院関白記は、断簡のみの年次も含めて、建長七年(一二五五)、康元元年(一二五六)、文応元年(一二六〇)、弘長二年(一二六二)、文永二・三・四・五年の分である。弘長二年以後のものは、すべて具注暦を用いた自筆原本の暦記が現存し、陽明文庫を中心に、その他国立歴史民俗博物館・下郷共済会文庫・天理大学附属天理図書館に分蔵されている。具注暦は、皆、暦注一行のあとに五行の空白のあるものを使っているが、官職の昇進と共に少しずつ大型化していく。
 建長七年・康元元年・文応元年の各一巻は、具注暦を使っていない。陽明文庫に、同文庫所蔵の自筆原本の暦記三巻と共に重要文化財に指定されている三巻がある。これは、従来は古写本とされており、暦記自筆原本とくらべると、筆跡が各巻毎にちがった印象を与える。各巻の巻頭部分を口絵に掲げておいた。しかしながら、いずれの巻にも誤字を黒く塗りつぶして抹消した個所があるなど、古写本らしからぬ特徴があり、文字を丁寧に比較してみると、文応元年の巻はまちがいなく自筆であって、建長七年の巻も若年であることや、その後の習練などを考慮すると、自筆の可能性が高い。残る康元元年の巻も表紙打付書や表紙見返しは、基平の筆と考えられ、自筆でないとしても基平生存中に整えられたとすれば原本の一種といえよう。
 「参考」として付収した執柄初任間事は、文永四年一二月の基平自身の関白拝賀等の次第書であり、基平自筆の原本を底本とした。日記が今伝わっていない期間に相当し、日記に代わる内容をもっている。
 摂関家の嫡子とはいえ、一〇歳という幼少からの日記の原本が伝わるというのは希少価値であり、筆跡のみならず、その記載も、祖父藤原(近衛)家実の猪隈関白記をなぞっているところや、言葉不足で意味のとりにくい個所があるなど、摂関家の子弟の成長過程を考える上で興味深い。一六歳以降の筆跡は老成といってよいほどに整い、記述も安定するが、この日記は総じて記事が簡潔である。
 政治的な事件に関連した記事としては、文応元年基平の姉宰子が鎌倉に下向し嫁いでいた将軍宗尊親王が、文永三年(一二六六)失脚して京都に戻って来た事件、文永五年蒙古の牒状が届いた際、幕府側からの知らせで返牒の可否を論ずる朝廷側の様子など、いずれも重要な史料である。
 基平の妻室は六名が知られるが、その結婚・出産や、三人の子女を遺して源(久我)通能女が没した際の記事などには、摂関家の私生活の一面がたどれる。また文永四年、後嵯峨上皇は、二月と三月と二度にわたって基平の嵯峨の別邸西谷殿に招かれて歓待されているが、本記と、勘解由小路経光の民経記の記事とを合せ見ていくと、基平のために活躍する母九条仁子の活躍が浮かび上がる。浄土宗西谷流の祖とされる法興浄音が、西谷殿を栗生光明寺の子院として晩年の活動の拠点となしえたのは、仁子の帰依によるものであろう。基平自身に浄土宗への信仰があったかどうかは不明である。
 本書の編纂にあたり今回採用した方針として、まず人名の傍注に姓だけでなく、次第に分立がはっきりしてきた家名を表示した。まためまぐるしく移動していく皇居・仙洞などの邸宅の呼称が本文中では一定していないので、これに統一名を与え、天皇・上皇名と合せて傍注した。巻末には、解題・藤原基平年譜・藤原基平略系・索引を掲載した。
 なお、虫損等によって欠けている文字を推定する上で、本所の古記録全文テキストデータベースの検索で手がかりを得た数箇所がある。基平の筆跡鑑定については、陽明文庫長名和修氏から、また国文学関係の事柄については、本所非常勤職員小川剛生氏から種々の御教示を得た。厚くお礼を申し上げたい。
(例言五頁、目次二頁、本文一七二頁、解題一七頁、年譜一六頁、略系二頁、索引二五頁、口絵図版三葉、岩波書店発行)
担当者 菅原昭英

『東京大学史料編纂所報』第31号 p.22*-23