大日本史料第二編之二十五

本冊には、後一条天皇の万寿四年(一〇二七)十一月から、同年十二月までの史料が収めてある。
 この間の主な事柄としては、入道前太政大臣藤原道長の薨去があげられる(十二月四日の条、四五頁以下)。これより先、道長の病は一進一退を繰り返しており、十一月八日には、中宮藤原威子の法成寺行啓が行なわれた(同日の条、五頁以下)が、こののちいよいよ病状は悪化してくる。道長の病によって、度者干人が給され(同月十三日の条、一一頁以下)、上東門院藤原彰子及び威子による御読経や関白藤原頼通による万僧供養が行なわれた(同月十四日の第二条、一四頁以下)。また権大僧都心誉による修法も法成寺五大堂で行なわれ(同月十六日の条、一六頁以下)、さらに威子の御修法、頼通による観音経読経(同月十八日の第二条、二〇頁以下)とつづき、法成寺薬師堂においても威子による仁王経御読経が行なわれる(同月十九日の第二条、二一頁以下)など矢継ぎ早に回復祈願の仏事が行なわれている。道長は、二十五日には、法成寺阿弥陀堂に移り(同日の第二条、二九頁以下)、ここで薨去することになるのである。この間、法成寺にあった禎子内親王は十九日には、枇杷殿へ還御している(同日の第三条、二三頁以下)。
 後一条天皇は、二十六日、法成寺に行幸し、道長の病を訪った(同日の第一条、三二頁以下)。このとき、同寺には封戸五百戸が施入され、御諷誦と万僧御供養も行なわれている(同上)。また、東宮敦良親王も、二十九日には、同寺に行啓し、道長の病を訪っている(同日の第一条、四〇頁以下)。このような様々な回復の祈願のかいもなく、道長は十二月四日、六十二歳で薨じた(同日の条、四五頁以下)。
 この他、宇佐八幡宮の怪異により軒廊御卜を行ない、東海・西海両道の諸国に太政官符を下して、災禍を祈祷させた(十一月二日の条、一頁以下)こと、内裏触穢による春日祭の停止と平野祭・大原野祭の延引(同月十二日の条、一〇頁以下)などがある。
 本冊には、道長の事蹟を集録した(十二月四日の条、四五頁以下)。
(目次三頁、本文三二八頁)
担当者 加藤友康・厚谷和雄

『東京大学史料編纂所報』第30号 p.13