大日本古文書 幕末外国関係文書 四十五

本冊は、万延元年十一月二十一日(一八六一年一月一日)から同十二月十三日(同一月二十三日)までを収めた。
 本冊の対象とする期間では、まず、米国公使館通訳ヒュースケン暗殺事件(十二月五日夜)がもっとも大きな事件として挙げられる。ついで、この事件の前提となった、日本とプロシャの通商条約締結交渉が大詰めを迎えたことを挙げなければならない。
 前者に関しては、既に十一月二十一日の時点で幕府は浪士による外国人襲撃の情報を入手し、各国公使館などの警備強化を図っている(第三号文書)。これはその前日に浪士が逮捕され、その供述によるものらしい(『大日本維新史料(稿本)』)。しかし、幕府がハリス経由でこの情報を英仏公使に伝達したため、その信愚性について、幕府の陰謀めいた印象を与えることとなった(フランスについては第一一号文書、イギリスについては『大君の都』第二四章参照)。この情報により江戸や神奈川などでは厳戒体制が敷かれるが、それも、十二月一日には部分的に解除の命令がでる(第四四号文書)。
 このような情勢のもとで、十二月五日にヒュースケンが暗殺される。この暗殺事件の具体的状況については、第五八・六九号文書に詳しい。周知のように、この暗殺事件に抗議して英仏蘭の使節団が江戸を離れることになるが、この際、英仏蘭と米との対応の違いが鮮明となる。その辺の事情は四ヶ国の会談の議事録である第七四号文書に詳細に述べられている。ここではイギリス艦隊とオールコックの思惑の違い(第五七号文書)、幕府とハリスの情勢認識の交換(第七二・第七八号文書)なども注目すべきであろう。また、ヒュースケンの葬儀(八日)のやり方についても、幕府と各国とは対立しがちであった(第六三・六六・七七号文書)。
 なお、危機的状況に対応して、オランダ領事館の横浜移転交渉など神奈川から居留地の横浜へ移動する動きがみられる(第五〇・五一号)ことは注目しておきたい。後者プロシャとの条約締結は、十一月二十三日の交渉でほぼ文案についての詰めが終了した(第九号)。残された課題は、条約発効までの居留プロシャ人の処遇と、ドイツ関税同盟の条約参加である。プロシャ人処遇は十三日最終的に老中が滞在継続を認め決着した(第八四・八五号文書)。関税同盟については既に三日の時点で老中の拒否(第四一号文書)を踏まえプロシャ側が参加を事実上断念しており(第五四号文書)、老中も十四日に最終的に拒否の書翰を出し、条約は同日締結となる。
 なお、プロシャと新規条約が締結にむかったことにより、ベルギーやスイスとの条約も新たに締結する可能性が生じたことも押さえておくべきであろう(第三二・三三・四五・六〇号文書)。
 これら二点のほかでは、前冊から継続して収録されているのは、長崎居留地地所規則関係で(第二・一九・二二・三〇号文書)、同じく合意にむけて最終局面を迎えている。さらに、モスの傷害事件交渉(第八・二九・四〇・六二文書)もある。
 ロシア・蝦夷地関係では、北京条約情報や艦長情報のほかは、サハリン島越冬にまつわる交渉事項(第三九・五二・六五号文書)を収めた。朝鮮では宗家文書から将軍継嗣に関係する文書を収録した(第五六号文書)。
(例言二頁、目次二五頁、本文五三四頁、索引一五頁、価九、四〇〇円)
担当者 保谷徹・松本良太・宮地正人・横山伊徳

『東京大学史料編纂所報』第30号 p.17*