大日本古記録 民経記七

本冊には天福元年五月・六月、及び翌文暦元年の記と紙背文書とを載せた。記主藤原経光は天福元年には二十二歳、正五位下、蔵人・右少弁であり、年末に右衛門権佐を兼ねるが、任官の時の記事は存しない。
 文暦の記は後年の外題に「経光卿御斎会奉行記」とある通り、別記と言えるものだが内容から察するに、経光自身が文暦当時の当人の日記により作成したと思われる。紙背文書に文永六年の具注暦が存するので経光の晩年に過去の当人の日記により作成されたと定められる。
 経光は五位蔵人と弁官との職責により種々の朝務に多忙な日を過ごし、その活動を詳記している。主な仕事としては大嘗会の為に蔵人として活動しているが、この行事は、日記には存していないが、天福元年九月藻璧門院崩御の為、延引され、更に文暦元年八月後堀河院崩御により再び延期される。
 又、延暦寺六月会に勅使として登山し、その次第を暦記に記しているが、詳しい記事は欠けている。その他、五月に上皇の命により蓮華王院に赴き、宝蔵より年中行事絵・藤原俊成清書の千載集・堀河院百首・拾遺集等を院の御所に運ぶが、その記事に併せて宝蔵の中の様子を記している。六月の利子内親王の立后節会についても詳記している。
 なお、五月記の紙背文書には貞応元年に父頼資(貞応当時左中弁)に充てたと思われる大嘗会に関連する文書が含まれている。今次の経光の大嘗会奉行の為に父から与えられた文書が日記の料紙とされているのである。
 (例言一頁、目次一頁、本文二一三頁、巻頭図版一頁、岩波書店発行)
担当者 石田祐一

『東京大学史料編纂所報』第30号 p.164