大日本維新史料 井伊家史料十九

本冊には、安政六年四月〜六月の史料と、「水戸士民出府探索関係史料」「徒目付従押届書」「幕政関係史料」を収めた。図版としては、安政六年五月四日付徳川慶篤宛井伊直弼書状控を収録した。
 四月二十二日、幕府がかねて朝廷に働きかけていた、「四方」(鷹司政通・同輔煕・近衛忠煕・三条実万)落飾の要請を天皇は聴したが、六月、長野義言は、天皇が、枝葉の堂上のみを罰し徳川斉昭を不問とするのは遺憾との意向を関白九条尚忠に伝えたことを、彦根藩側役兼公用人宇津木景福に報じている(五五号)。
 水戸藩に対しては、幕府は、四月二十六日藩家老を評定所に呼び出し、吟味の上、他家預けとした。この処置に激した水戸の士民は大挙江戸に向かった。五月十七日の時点で、関東取締出役はこれまで出府した者約二千四百人と報告している(二九号別紙)。水戸藩家老興津良能は、老中太田資始に、「人心安堵の筋なくては、いかなる事変に及ぶやもしれず」と伝えている。
 一方、水戸方に荷担した京都町奉行与力木村勘介(二十四日自害)・草間列五郎・平塚瓢斎に対しては、六月二十一日京都所司代から慎を命じ、また、水戸寄りの京都町奉行大久保忠寛らの探索も開始された(七一号)。
 江戸では、依然として、三月十二日に帰府した老中間部詮勝が持ち帰った、安政五年十二月晦日付沙汰書・安政六年二月六日付沙汰書への対処が議論されている。直弼は、鎖国復帰に触れた安政五年十二月晦日付勅書については、諸侯に達するには及ばずとの関白九条尚忠の意向を聞き安心しているが、詮勝はこれに反対の意見を主張し、直弼と対立した(二一号)。
 「水戸士民出府探索関係史料」として収録したのは、町奉行・勘定奉行・関東取締出役・小人目付・某による水戸士民の動静の探索報告である。町奉行は、江戸の水戸藩邸に、水戸家中・郷士・百姓が陸続と参集してくる様子を老中に報告し、勘定奉行は、日光道・水戸道における、水戸関係者の通行の様子・動静についての代官・関東取締出役からの報告書を幕府へ提出している。また、小人目付は、水戸藩に荷担する国持衆があり、事態への対処は譜代・旗本に命ずべしとする風説や水戸藩の内情を報告している。
 「徒目付徒押届書」も、水戸関係者の動静を報じたものである。この時、徒目付・徒押は、小梅村水戸藩邸や松戸宿に赴き、風聞を探っている。
 「幕政関係史料」には、寺間争論に関する寺社奉行宛願書、施薬院提出の医学寮建設の京都町奉行宛内慮伺、開港の出費に対処するための倹約等の方策を提案した勘定奉行上書を収録した。
(目次一五頁、本文三五二頁、図版一葉)
担当者 小野正雄・杉本史子

『東京大学史料編纂所報』第30号 p.16*-17