大日本古記録「殿暦四」

既に所報第一号で紹介した刊行計画による第四冊として出されたこの「殿暦四」は、藤原忠実の日記中永久元年正月より同四年十二月まで、記主三十六才から三十九才にわたる四年間を記したものである。
 忠実は、康和元年父師通の薨後をついで内覧の宣旨を賜わり、氏長者となった。嘉承二年幼帝鳥羽天皇の践祚によって摂政となり、永久元年天皇元服によって関白に改められた。保安元年、その女泰子の入内問題から白河法皇との間がこじれて内覧を停められた。大治四年、法皇が崩御、鳥羽上皇が院政をとられるに及んで政界に復帰、奉子を皇后に進めたが、嫡男忠通を疎んじ、次子頼長を偏寵してこれを家嫡とし、事ごとに忠通に圧力をかけて保元の乱を醸成し、ついに知足院に隠棲の余生を送るに至ることなどは、既に著聞の事蹟である。応保二年薨。年八十五。但し、日記殿暦は元永元年を以て絶えるので、保元の乱のことなどを之によって知ることはできない。
 本冊の内容は、既刊の分と同じく、朝儀典礼に関する記事が多いが、摂関から政権を奪った白河法皇の政治や仏教信仰、所謂「摂関政治の凋落期」における関白忠実の果した役割やその生活、南都北嶺の嗷訴、武士階級の登場等興味深い史料に富む。就中僧兵の嗷訴は年中行事化した観があるが、氏長者であった忠実が最も頭を痛めたのは氏寺興福寺のそれで、長者宣を下しても効果のない自らの無力を嘆き、永久四年十月十一日には、「最藤氏無術比歟」と慨嘆している。
 尚、底本に用いた陽明文庫所蔵の古写本二十二冊は、「殿暦一」の例言に述べたように、表紙に一連番号一から廿を有する二十冊と、「余」と記した二冊とより成る。この「余」の冊の一は、二十冊本の一〜三に当る部分を別の筆者が記したもの、「余」の冊の二は、長治元年正月〜十二月を、これ亦別の筆者が記したものである。ところが、二十冊本の方のこれに相当する部分、即ち六には長治元年の後半(七月〜十二月)を収めるだけで、前半(正月〜六月)がない。従って、本来ならばこの方を六とすべきであったと思われるが、なんらかの理由でこの冊に「余」の字が附けられたものである。陽明文庫にはこの古写本のほかに、江戸時代に近衛家熈が手写した所謂「予楽院本」があるが、これは二十冊本だけを書写して、「余」の冊はとらなかった。従来、大日本史料の編纂等にあたっては、予楽院本の転写にかかる内閣文庫本を用いたため、当然の結果として、長治元年の前半を欠いていた。即ち、この部分が公にされたのはこの大日本古記録「殿暦一」が最初である。第一冊は所謂創刊以前の出版であって、紹介の機会を逸したので、この重要なる一条をここに補い記す。(大日本史料も第三編之十八において、この部分を補遺として収めた。)
担当者 竹内理三・山中裕・近衛通隆・龍福義友。
 (目次一頁、本文二七二頁、図版一葉、岩波書店発行)

『東京大学史料編纂所報』第3号 p.67**-68